「イエスさまが私たちの現場に共におられる」
- 佐々木 優
- 2025年12月21日
- 読了時間: 3分
2025年12月21日(日)
14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
イエスさまの12弟子の一人ヨハネは、イエスさまを「ことば」として紹介します。ヨハネの福音書1:1~3には
1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
と記されています。この「ことば」イエスさまは、宇宙の枠組みを創造された時に神と共にあった、神ご自身である方です。想像を絶する、遠い天におられるはずの神が、クリスマスの出来事において、私たち人間の歴史の中に、人間の現実のただ中に身を置かれたということです。弱さ、限界、傷つきやすさ、老い、痛み、そして死を含む、壊れやすい人間の現実そのものの中に・・。イエスさまは高い所から私たち人間を眺めるために来られたのではなく、私たちと同じ環境に身を置くために来られたのです。
「住む」ということばは、「仮住まいをする」「幕屋を張る」という意味を持ちます。イエスさまは、人間世界を一時的に視察したのではなく、そこに腰を据え、共に生活することを選ばれたのです。
「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」
3年半余りイエスさまと寝食を共にした弟子のヨハネが見たイエスさまの栄光は、権力や成功、輝かしい勝利の姿ではありませんでした。それは、病人に触れるイエスさま、罪人呼ばわりされる人たちと食卓を囲むイエスさま、裏切られ、十字架にかけられるイエスさまの姿でした。
「この方は恵みとまことに満ちておられた。」
イエスさまは恵みという寛さ、まことという深さのかたまりのような方でした。
「恵み」とは、人間の側に受ける理由がなくとも、神さまが人々をそのままで愛しているというその一点の理由だけで注がれるものです。
「まこと」とは、真実 本当のこと ありのまま、誠実を意味します。ヨハネ 1 章 17 節には、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」と書かれてあります。律法はモーセ、恵みとまことはイエスさまです。恵みとまことは、それぞれ対極にある概念ではありません。「律法―恵みとまこと」という対比です。律法は固定的です。旧約時代のイスラエルの民は形にこだわる信仰に進んでしまいました。恵みとまことは自由です。まことは事実、ありのままです。ありのままが一番自由なのです。ありのままであればあるほど人間は自由になれるのです。
ユダヤ教では律法が神のことばとされ、創造に先立って存在していたと信じられていました。しかし、ヨハネは、イエスさまこそが先在のことばであるとし、そのイエスさまが私たちの間に住まわれたのだと驚愕の事実を表現しているのです。
18節「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」神さまは様々な時に色々な方法でご自身のことを語られましたが、旧約の神さまは、時々声が聞こえてくるようなわかりにくい面がありました。ところが、イエスさまを通して、神さまのことがスッキリわかるようになりました。イエスさまが人間の姿をとって地上に来て下さって、神さまという御方の情報量は、何千倍、何万倍にもなったとも言えます。
クリスマスは、イエスさまが、私たちの人生の現場に住み着いたという知らせです。喜びの中にも、痛みの中にも、答えの見えない問いの中にも、イエスさまは今も、私たちと共におられるという良き知らせなのです。