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「イエスさまが私たちに仕えて下さっている」

  • 佐々木 優
  • 2025年4月6日
  • 読了時間: 2分

2025年4月6日(日)

テキスト:ヨハネの福音書13:1~20(新約聖書211頁)

 

 パレスチナの道路は、全然舗装されておらず、ほこりっぽかった。乾燥した気候の折には、ほこりはかなりうずまり、雨期にはどろんこ道となった。一般民衆が履いていた履物はサンダルであった。それらのサンダルは簡単な底革で、2,3本のひもで足に結び付けられていた。それは道路のほこりや泥を防ぐには、ほとんど役に立たなかった。パレスチナの風習では、人々は祝宴に出かける前には沐浴をした。彼らは招待主の家に着いた時、もう一度沐浴する必要はなかった。ただし、しなければならないことは足を洗うことだった。洗足とは、彼らが客として家に入る前になされるパレスチナの儀礼であった。そして、祝宴で客の足を洗うことは、奴隷の務めであった。イエスさまは上着を脱ぎ、奴隷の姿になり、奴隷がするように手ぬぐいを腰に巻き付け、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、仕える者の姿の特徴である腰の手ぬぐいで拭き始めた。

 イエスさまは弟子たちに、「自分の子分になりなさい」と言われたのではありません。仕えて欲しくて召し出しているのであれば、そのこと自体、イエスさまの本質と矛盾します。手下になってほしいのでも、しもべや奴隷になってほしいのでもないのです。不自由になって欲しくないのです。

 クリスチャンの生涯はイエスさまのために生きる生涯ではないのです。自分の人生はそっちのけで、全部を犠牲にしてイエスさまのために生きるのがクリスチャンの人生だとすると、それは修行の世界になります。実際は逆で、イエスさまが私たちに仕えて下さっているのです。イエスさまは今も、足りない私たち一人一人に仕えていて下さる方なのです。

 聖書に記されている方向性は、常に、神さまの方から人間の方へなのです。

最後の晩餐の席でイエスさまが弟子たちに最も伝えたかったことは、ヨハネ13章34節のことばであろう。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」

このことばも、「わたしがあなたがたを愛したように」と、まず神さまの側から人間を愛すということが先行しているのです。

人間にできることはせいぜい1くらい、あとの99はイエスさまがやっておられるのです。「私がイエスさまのために」ではなく、「イエスさまが私のために」して下さっているのが福音なのです。


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