「わたしはよみがえりです。いのちです。」
- 佐々木 優
- 2024年3月9日
- 読了時間: 4分
2024年3月10日(日)
イエスさまは、ベタニア村の兄弟、マルタ(長女)、マリア(次女)、ラザロ(末っ子)をこよなく愛していました。マルタとマリア姉妹は使いを送り、イエスさまに助けを求めました。しかし、イエスさまはそのときにいた場所になお二日間いました。そして、「イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。」(17節)とあります。マルタもマリアも何故早く来てくれなかったのかとイエスさまに訴えました。イエスさまはマルタに言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(25節)「また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(26節)
イエスさまは、マリアと共に泣いているユダヤ人をご覧になり涙を流されました。イエスさまは大声で「ラザロよ、出て来なさい。」(43節)と叫ばれ、死んだラザロを墓の中から生き返らせました。これが本日の聖書箇所のおおまかなストーリーです。
①「恵みのオファーをごり押しされないイエスさま」
イエスさまは何故、病気のラザロの下にすぐにかけつけなかったのでしょうか?イエスさまは弟子たちにラザロが死んだことを伝えると「あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」(15節)と述べています。また、ラザロを甦らせえる時、「あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」(42節)と、そこにいる人々が父なる神さまがイエスさまを遣わしたことを信じるようになるためと述べています。
河村従彦師はこのように言われます。「神さまはご自身の恵みを要りませんと思っている人に強引に恵みを注いだりはしません。それでは、神さまは人間を尊厳ある存在として尊重していないことになります。それで、神さまが葛藤され、人間一人一人の尊厳を尊重しつつ恵みを受け取ってほしいと思いついた方法がこういう方法なのではないか・・。それは、人間が行き詰った時に神さまの恵みに出会った方が人間は受け取ってくれる。人間は元気な時、自分でやれると思っている時、恵みが必要だとなかなか思えないから・・そして聖書に登場する人物のほとんどがそのようにして神さまの恵みを経験している・・と」
イエスさまが病気のラザロの下にすぐにかけつけなかったのは恵みのオファーをごり押しせず、イエスさまの弟子たち、マルタ、マリア、周囲の人々が神さまの恵みを受け取りやすくされたのではないでしょうか・・
②「共感して涙されるイエスさま」
イエスさまは、マリアと共に泣いているユダヤ人をご覧になり涙を流されました。人間は困難苦難に遭う時、神さまは沈黙しているのではないかと絶望します。しかし、神さまは側にいて共に苦しみ涙しておられる御方なのです。
③「いのちの源である御方」
イエスさまは「わたしはよみがえりです。いのちです。」(25節)と言われました。旧約聖書で表されていた神さまのお名前「ヤハウェ」の意味は、「いのち、生きる者、生かす者、あり続ける者」です。旧約時代の神さまの民は、神さまのことを、「いのちの源である方」「養われる方」として捉えていたということです。イエスさまはマルタにあなたが信頼していた父なる神とわたしは同じものなのだよと言われたのだと思います。イエスさまはいのちの源である御方なのです。
④「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
イエス様はラザロを生き返らせました。ということは、生前ラザロはイエスさまを神であり救い主と信じていたということです。聖書は、イエスさまがもう一度この地上に来られる時、イエスさまを神であり、罪(神さまの愛を知らずに的を外して生きていること)からの救い主であると信じて(信じるとは、神さまが恵みを注いで下さっていることに気づき、そのオファーを受け取ること)いて亡くなった者たちをよみがえらせると述べています(Ⅰコリント15:20~58、Ⅰテサロニケ4:13~18)。恵みを受けたラザロはその先例ともなったのです。
来週は26節その他から思いめぐらしたいと思います。