top of page

「にもかかわらずの恵み」

  • 佐々木 優
  • 4月13日
  • 読了時間: 5分

2025年4月13日(日)

テキスト:ルカの福音書23:32~43 (新約聖書170頁)

 

 ふたりの犯罪人が、イエスさまとともに十字架にかけられた。

 39節には「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、『おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え』と言った。」とあるが、はじめは犯罪人の二人共がイエスさまをののしっていたと、マタイ、マルコの福音書には記されている(マタイ27:44、マルコ15:32)。しかし、ルカの福音書には、悪口言う犯罪人の一人に、もう一人の犯罪人が彼をたしなめて言ったとある。「『おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。』そして言った。『イエスさま。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。』」(40~42節)イエスさまは金曜日の夜に捕らえられ、急遽行われた裁判は夜を徹して行われた故、イエスさまが何の罪に問われ十字架刑に処せられているのかを、この犯罪人は知るよしもなかった。故に、十字架刑に処せられるほどの重罪を犯したが故に十字架刑に処せられているのだろうと考えるのが普通ではないだろうか。イエスさまのうわさ(病人の病を治し、死人をも生き返らせた等の数々の奇蹟を行い、神さまは愛なる御方であることを説き明かすすばらしい人物)は耳にしていたかもしれないが、いずれにしても、「この方は、悪いことを何もしていない」と確信し、「イエスさま。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」という言葉が出たのは、自分を罵倒し、侮辱の残虐行為を行っている者たちに対して、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」と祈るイエスさまの姿を見たからと言えるであろう。

 その犯罪人の一人にイエスさまは言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」パラダイスということばは、囲いのある庭園を意味し、そして、神の住まいである天の国を表している。

 十字架上のイエスさまの両脇には犯罪人がつけられていたが、私たちは片方の犯罪人はイエスさまを神と信じられたから天国行きが宣言された・・人生の究極の土壇場で大逆転で天国へ行けた人という・・天国行きが宣言された犯罪人に視点を合わせて聖書を読みやすいかもしれない・・。もう一人の犯罪人は悪者として・・。

 聖書は恵みの原則で書かれていて、それは逆説で書かれているということです。たとえば報酬は、こちらに理由があって受け取ることができるもの、恵みは、こちらに理由がないのに受け取ることができるものです。報酬の原則は、一日これだけ頑張ったからこれだけのものがいただけるという考え方です。「AだからB」原因があって結果があるという考え方で、「原因・結果論」です。他方、恵みの原則は、ぜんぜん頑張れなかったにもかかわらず、いただけるという考え方です。AとBの結びつきがゆるい状態、あるいは、はずれている状態と言ってもよいかもしれません。「AにもかかわらずB」です。聖書は逆説で書かれているのです。クリスチャンの生涯で言えば、足りない「にもかかわらず」いただいている生涯です。神さまから恵みが注がれるのは、人間の側に何かふさわしいことがあったからではなく、一方的な神さまの愛と配慮のゆえなのです。クリスチャンの人生は、「AだからB」ではなく、「AにもかかわらずB」に生きることです。

 聖書には人間の尺度からするとおかしなことばかり書かれています。

 人のものを奪って平気なヤコブがなぜ神さまの祝福を受けるのか・・。人を殺したことのあるモーセがなぜ神さまの大仕事を任せられるのか・・。教会をいじめぬいたパウロがなぜ初代教会の建設と、キリスト教神学の大綱をまとめるという大仕事を任されるのか・・。イエスさまを裏切ったペテロがなぜ初代教会のスタートで重責を担うのか・・。姦淫の現場を取り押さえられた女性がなぜイエスさまから何も言われないのか・・。

 聖書に登場する人物で神さまに貴く用いられたのは、人を殺した経験のある人たちです。モーセは若い時の失敗とはいえ、業務上過失致死罪、ダビデは、今とは常識の全く異なる古代王朝の文化とはいえ殺人罪。パウロもクリスチャンを捕まえては投獄し、そのことで命を絶たれた人もいたかもしれません。

 本日の聖書箇所のパラダイス行きを宣言されなかった犯罪人を私たちはどういう思いで見るでしょうか・・。あの人は天国へは行けなかったはずという思いで見るでしょうか・・。私たちは聖書を読む時、悪者を設定し、自分は大丈夫だと思いたい心理が働くのです。

 イエスさまが十字架上で、犯罪人の一人は信仰告白をしたから天国行きでもう一人はダメというような表現をするということは考えられません。聖書が示す神の国の原則、恵みの原則からかけ離れているからです。

 神さまの目から見れば、本当は、自分もイエスさまを裏切ったペテロやユダと変わらないはずです。そして、十字架上の両犯罪人とも・・。

 神さまの恵みの原則の世界は、私たち人間の努力ではどうにもならない世界なのです。だからイエスさまの十字架が必要なのであり、自分にはできないから、やっていただく以外にはないのです。


最新記事

すべて表示
「あなたにはわたしの傍にいてほしい」

2025年11月23日(日) テキスト:創世記3:1~13 (旧約聖書4頁)  本日の箇所には、人間の先祖アダムがサタンの誘惑に合い、自分の自由意志を用いて、いのちの木の実に手を出し、神さまとの距離ができたことが記されています。聖書が示す罪とは、その後、アダムとエバの長男カインが弟アベルを殺してしまった (創世記3章~4章16節) ことによって物理的に「罪」というものが人間に入ったということではな

 
 
「教会はイエスさまのものだから」

2025年11月16日(日) テキスト:使徒の働き12:24~25 (新約聖書259頁) (24節:神のことばはますます盛んになり、広まっていった。)  このことばは、ヘロデ・アグリッパ王による激しい教会迫害があったにもかかわらず神さまのことばはますます盛んになり、広まっていったということを示している。それは神さまがなさっておられるからです。ヘロデ・アグリッパ王のことも愛しておられる神さまの股裂き

 
 
「愛のゆえに力を制限される神さま」

2025年11月9日(日) テキスト:使徒の働き12:1~23 (新約聖書257頁) 1~4節  アンティオキア教会がエルサレム教会へ救援物資を集めていた頃、紀元44年の過越の祭りの頃、ヘロデ王(アグリッパ1世、イエスさま誕生の時の支配者だったヘロデ大王の孫、ローマ皇帝カリギュラと親交があった)は、ヘロデ王家が混血であったため、保守的なユダヤ人たちの歓心を買おうとし、異邦人との交流を深めていたエル

 
 
bottom of page