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  • 佐々木 優

「どんな時でも見守り続けておられるイエスさま」

2024年4月7日(日)

テキスト:ルカの福音書24:13~35(新約聖書172頁)

 

13節「ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。」

この二人の弟子はクレオパ(18節)と、そしてもう一人は、ここに誰であるかは記されていませんが、彼の奥さんであろうと言われています。

14節「そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。」

「話し合う」ということば「ホミレオー」は、単なるうわさ話しではなく、答えを見出そうとする語り合いを意味しています。イエスさまの弟子集団の中で歩んでいたこの夫婦も、あまりにも突然のイエスさまの逮捕、十字架刑による死によって、混乱状態にあり、何が何だか頭の整理がつかないまま失意の中にあったのではないかと思います。イエスさまの遺体が墓の中になかったこと、そして、そこに二人の御使いが現れ、イエスさまご自身が語っておられたように、イエスさまはよみがえられたのだと語ったということを、マグダラのマリア等の女性たちが、繰り返し繰り返し語っても、このクレオパ夫妻もまた、女性たちの証言を信じられなかったのだと思います。

15節「話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。」16節「しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」とある。「さえぎられていて」は、動詞の未完了受動態という使われ方がされていて、「さえぎられ続けていた」ということを表す他に、「支配され続けていた」、「捕えられ続けていた」、「固執され続けていた」ということを表します。二人の目は「さえぎられ続けていた」故に、イエスさまが近づいて共に歩いていても、イエスさまだとは分からなかったのです。この「目」は明らかに肉眼の目のことではありません。聖書の中に、霊の目ということばはないのですが、心の目ということばは一か所だけあります。ここで使われている目は肉眼の目ではないので、心の目ということで理解したいところですが、神さまに関する事柄が分からなくなっている、見えなくなっているという状況から考えると、霊の目という理解をした方がよいと思います。クレオパ夫妻はイエスさまの御顔が見えなくなっていたと言えるでしょう。

イエスさまは復活の姿を二人に現し、エマオという村に着くまでの道中の間ずっと、二人の霊の目が開かれるようにと働きかけ続けました。しかし、簡単には霊の目は開かれませんでした。二人の霊の目は、「捕えられ続けていた」、「固執され続けていた」のです。死んだ人間がよみがえるなどということはありえないという考え方に捕らえられ、固執し続けられ、その考えから抜け出ることができなかったのではないでしょうか。あるいは、イエスさまがユダヤのリーダーとなるということに期待をかけ従ってきたが、自分の進もうとしていた目標を失い、この後、何をして生きていけばよいのかと将来に失望していたのかもしれません。あるいは、自分たちもイエスさまを裏切ったという罪責感とそんな自分への失望もあったかもしれません。そんな思いに「捕えられ続けていた」のかもしれません。クレオパ夫妻は復活のイエスさまのお姿を見てもイエスさまが復活したことが分からなかったのです。

25節「そこでイエスは彼らに言われた。『ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。』」

このことばを一見すると、クレオパ夫妻の不信仰を責めているかのように見えますが、ここで使われている「愚か」ということばは、「愚か」という意味もありますが、「理解に乏しい」くらいのニュアンスでもよいことばだそうです。ですので、このことばは、クレオパ夫妻の不信仰を責めているのではなく、一連の出来事に対する理解が及んでいませんねと言われたのだと思います。

そんな二人にイエスさまは、最後の晩餐を思い起こさせるような出来事を視覚を通して見せることによって、31節「彼らの目が開かれ、イエスだと分かった」のです。「開かれ」は受動態という形の動詞であり、まさしく、二人の霊の目を、神さまが開いて下さったということを表しているものと思います。

32節「二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』」クレオパ夫妻が失意の中にあり、生きる希望を見出せなかったであろうと思われるその時にも、夫妻の心は内で燃えていたということです。「心は内で」とありますが、それは、神さまとの繋がりの部分、霊の部分を指しているのだと思います。「燃えていた」の動詞は受動態であり、「燃やされ続けていた」ということです。イエスさまが共にいて、夫妻の霊に働きかけ続けていた故に、夫妻の霊の部分は燃やされ続けていたということだと思います。

私たちもイエスさまの御顔が見えなくなる時があると思います。見えているのかさえ分からないかもしれません。しかし、クリスチャン生涯は、私たちの信心とか頑張りとは全く関係のないものであることが本日の箇所からも分かります。私たちがいつもいつも気を付けてイエスさまの御顔を見ていなければ全部ダメになってしまうような世界ではないのです。私たちが御顔を見ていない時もイエスさまは私たちに御顔を向け続け、見守り続けて下さっているのです。

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