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「できれば避けたい十字架にも向かわれたイエス様」

  • 佐々木 優
  • 2017年9月16日
  • 読了時間: 3分

2017年9月17日(日)

テキスト:ヨハネの福音書12:27 (新約聖書205頁)

 

27節「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」

 このみことばは、他の福音書(マタイの福音書26:36~46、マルコの福音書14:32~42、ルカの福音書22:39~46)に記されているゲツセマネの園でのイエス様の祈りを思い起こさせるが、おそらく、この27節に表されているイエス様の心境も、ゲツセマネの園での祈りの時と同じ心境だったのだと思う。マタイ26:38、39には「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」とある。「今わたしの心は騒いでいる。」とは「悲しみのあまり死ぬほどです」という心の状態だったのであろう。


〇マルコの福音書15:33~34には、イエス様が十字架にかけられた時の様子が記されている。「さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」

 三時間にわたって全地を覆った暗闇の中では、人間が誰ものぞき見ることもできない、恐るべきさばきが執行されていた。父なる神様とイエス様は、無限、永遠、不変の愛(人間では計り知ることのできない愛)によって結ばれており、その愛が破られることは、十字架刑の時までは一瞬たりともなかった。しかし、この十字架上では、人間が釘づけにされるという苦しみのみならず、父なる神様との完全な断絶が行われるという刑が執行されていたのである。イエス様はこの十字架刑をできれば避けたかったのである。しかし、人類の罪を贖う方法は、罪のない、罪を犯したことのないイエス様が十字架で私たちの罪の刑罰を代わりに受けるという方法しか神様の中にはなかったのである。そして、御子イエス・キリストの十字架に、私たちに対する神様の究極の愛が示されたのである。ヨハネの手紙第一4:9~10「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」


〇無限、永遠、不変の愛において御子を愛しておられる父なる神様にとって、御子イエス・キリストが人間の手によって加えられる十字架刑の死の苦しみを味わわれることは、耐えられないことであったはずである。まして、ご自身の手によって、御子イエス・キリストとの断絶の刑を執行することも、本来は絶対になさりたくないことであったはずである。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたイエス様の思いと、父なる神様の思いは同じだった。しかし、父なる神様も、御子イエス・キリストも、ご自身の思いと願いを捨て、私たちを愛するがゆえに十字架刑に向かって行かれたのである。「愛」の動機でしか働きかけることをされない神様が。

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