「だれもさばかないイエス様のもとで」
- 佐々木 優
- 2023年11月19日
- 読了時間: 3分
2023年11月19日(日)
テキスト:ヨハネの福音書8:1~11(新約聖書195頁)
イエス様は「わたしはだれもさばきません。」(ヨハネ8:15)と言われます。なぜでしょうか・・。それは、神様がアブラハムと結んだ契約(創世記15:17)に起源があるとも言えるでしょう。その時の契約は片務契約とも言われています。切り裂かれた動物の間を本来ならば契約の当事者双方が通り過ぎなければならないのに、神様だけが通り過ぎ、アブラハムは通り過ぎていないという契約。それは、契約違反の責任を神様だけが負うという契約でした。その契約は連綿と受け継がれ、イエス様の十字架へと続きます。イエス様だけがそのからだを裂かれ、尊いいのちを捨てて下さいました。
Ⅱコリント5:19、21「すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。・・・神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
ヨハネ8:1~11に、イエス様のところに姦淫の罪で捕らえられた女性が律法学者とパリサイ人によって連れて来られるという記事があります。律法学者とパリサイ人はイエス様に言います。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」(4~5節)
当時、ユダヤの最高議会には、石打ちを含む、死刑を決定する権限が与えられていませんでした。その権限はローマ政府が持っていたのです。イエス様が「石打にせよ」と言えば、ローマの権限に逆らった者として訴えられ、そして、「石打にするな」と答えれば、モーセの律法に逆らった者としてユダヤの最高議会側が訴えるという手はずになっていたのです。
律法学者とパリサイ人の問いに対してイエス様は身をかがめて指で地面に何かを書いておられました(6節)。「しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。』」(7節)結果、年長者たちから始まり、全ての律法学者・パリサイ人がその場から去って行きました(9節)。イエス様は彼女に言われます。10節「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」イエス様は罪を告発する者はなかったのですかと言われました。11節「彼女は言った。『はい、主よ。だれも。』イエスは言われた。『わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。』」
「わたしもあなたにさばきを下さない」ということばは、「わたしには告発できない」とも訳せることばだそうです。それは、イエス様は姦淫の現場を見たわけでもないからです。イエス様が地面に書いていたものは、もしかすると、「現場を見たわけでもないので告発はできないが・・」と前置きした上で、律法学者・パリサイ人たち自身が行ってきた姦淫の出来事を記していたのではないでしょうか・・。
イエス様は神様ですから、女性の姦淫の事実も知っていました。しかし咎めませんでした。それはこの女性も片務契約の何の責任も負わされない側だからと言えるのではないでしょうか・・。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)私自身は姦淫の女性と何ら変わらない人間だと思います。また、ここに登場する律法学者・パリサイ人とも何ら変わらない人間だと思います。ただ、わたしはあなたを永遠に愛しますという片務契約の中で生かされ、「わたしはだれもさばきません。」(ヨハネ8:15)と語られる憐み深いイエス様のもとで生かされていることを感謝します。