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「すべての人を愛している神」

  • 佐々木 優
  • 2017年6月11日
  • 読了時間: 3分

2017年6月11日(日)

テキスト:ヨハネの福音書11:1~16 (新約聖書200頁)

 

○エルサレムからおよそ3キロメートルほど離れたベタニヤという村に、イエス様が事あるごとに度々立ち寄っていたであろう家があった。その家は、マルタとマリヤという姉妹とその兄弟ラザロが住んでいた家であった。「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」(5節)と記されていることからも、イエス様はこの一家に、深い感謝であったりの特別な思いを抱いていたと思われる。


○イエス様は、愛するラザロが病気であることを聞かされた。イエス様は、この病気がラザロを死に至らせるということが分かった。しかし、あえて二日もベタニヤへ行く予定を遅らせた。それは、ラザロを死人の中から生き返らせることを通して、神の栄光(*1)を現し(4節)、人々がイエス様を神であると認めて信じるため(15節)であった。イエス様は意図的に出発を遅らせ、そしてその間にラザロは死んでしまう(14節)。


○神様は、被造物の自然の流れをそのままにされる。それ故に、その自然の流れの中で多くの悲しみも起こるという現実もある。この時のラザロの死も、人間に定められた寿命という自然の流れの中で起こったことであるが、しかし、全能なるイエス様は、ラザロの病気を治し、死なないようにすることもおできになった。愛する一家が悲しむことのないようにすることもおできになった。しかしそれをされなかった。それは、ラザロを死人の中から生き返らせることを通して、人々が、イエス様を神であると認めて信じるためであった。イエス様は、マルタ、マリヤ、ラザロの一家を愛しておられた。しかし、この一家の近所の人々も愛しておられたのである。故に、ラザロが死を迎えた時に、この一家の近所の人々に、ご自身が神であることを、はっきりと示さなければならないと思われたのである。イエス様を神であり、罪(*2)からの救い主であると信じることが、人間にとっての何よりもの幸いであるから。


○イエス様は、たった今、殺されかけたばかりのエルサレムに戻っても(7~8節)、イエス様の十字架の時がせまりつつある限りのある時間の中で、できる内になすべきことをする(9~10節)のだと語り、ベタニヤ村へ出発された。


○マルタ、マリヤは、ラザロの死によって悲しみに打ちひしがれた。それは、他の人々がイエス様を神であり、救い主であると信じるために、一時、忍耐しなければならないことだったのである。私たちも神様に愛されている。しかし、周りの人々がイエス様を信じるために、すなわち、周りの人々にも神様の愛が示されるために、周りの人々が神様のもとに戻り幸いな生涯を送るために、一時期、忍耐しなければならないこともあるのである。神様はすべての人を愛しておられるからである。

 

*1 栄光とは、人類を贖い出す神の御業と関係のある内容を表すことば

*2 罪からの救いとは、イエス様を神であり罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じることによって、罪が赦される(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)こと。

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