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「うめきから生まれる希望」

  • 佐々木 優
  • 2017年8月19日
  • 読了時間: 2分

2017年8月20日(日)

テキスト:ローマ人への手紙8:18~26 (新約聖書301頁)

 

〇私たちは、イエス・キリストの十字架による贖いによって神の子どもとされ、神様との交わりを回復させて頂いた。その祝福は、言い尽くせないほどの祝福である。しかし一方で、私たちの贖いは未だ完成に至っていない。パウロは、「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(23節)と述べている。

 イエス・キリストの再臨の時、贖いの完成に至るその時、私たちのからだは朽ちていくものではない栄光のからだに変えられる。パウロの何よりもの希望は、この、からだ(心も含めた)の贖いであったとも言える。パウロが「うめく」ほどに苦しんでいたのは、原罪との戦いであった(ローマ7:14~25)。この戦いこそ、パウロを唯一嘆かせた(「私は、ほんとうにみじめな人間です。・・」7章24節)苦しみであった。しかし、この原罪が住みつくからだが変えられる時があるという希望をパウロは常に持っていた。そして、その希望は、自然界に目を向ける時になお確かなものとなる。なぜなら、人間以外の被造物は、自分の意志とは関わりなくアダムの原罪の影響を受けた。それは神様のご計画によるのであって、それ故に回復の時も神様が定めておられるということが分かり(20節)、同じく、私たちの贖いの完成の時をも神様が定めておられるということが分かるからなのだという。


22節「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」

 パウロはこの世界の「うめき」を聴きながら、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめく」のだという。御霊を受けて平安に満たされてがオンリーではないのである。詩篇42篇は、神様への信頼の告白と、嘆きの訴えが交互に記されている。これが私たちクリスチャンの歩みでもある。神様への信頼と嘆きの訴えは決して矛盾するものではなく、交互に生まれるものであることを示しているのである。この詩篇の作者はこのような中にあって、「私のいのち」は神様との交わり自体、「祈り」の中にあると告白している。絶望感のただ中にあって、その中にあって、神様を身近に感じているのである。


〇私たちは、自分の内面のことでも、そして、外面からのことでも、「うめく」。しかし、御霊を受けた者として「うめく」時に、そこに大きな希望が生まれるのである。なぜならば、その時、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」からである(26節)。

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