「いつまでも住みたいと心底願う主の家」
- 佐々木 優
- 2024年3月2日
- 読了時間: 3分
更新日:2024年3月9日
2024年3月3日(日)
詩篇23:1「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」ダビデが晩年になって回顧したことばは、私の人生は罪、弱さ、失敗の連続で、その人生の現実と弱さをコントロールできなかったけれど、コントロールして下さる完璧な羊飼いなる神様がおられたからやってこられたという思いからのことばでした。
詩篇23:6「まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」
ダビデはこの詩の結論として2つのことを言っています。
第一に、人生は、神様の恵みが追って来る世界である。
第二に、人生は神様の家に帰り、そこに住むことである。
本日は6節後半部分「私はいつまでも主の家に住まいます。」から学びたいと思います。
もともとのことばを見ると、「住む」には「帰る」「回復する」という意味があるそうです。詩篇23:3の「主は私のたましいを生き返らせ」の「生き返らせ」と、6節の「住む」は同じことばであることから、「家に住む」とは、家に戻ることでたましいが生き返るというニュアンスだと考えられるそうです。
ダビデは詩篇27:4、5ではこのように記しています。「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。それは主が苦しみの日に私を隠れ場に隠しその幕屋のひそかな所に私をかくまい岩の上に私を上げてくださるからだ。」
ダビデが一つのことを主に願ったと言って、生きている間ずっと主の家に住むことを心底願ったその理由は、命の危険にさらされていた時(ダビデの先の王サウル王、そして息子アブサロムに命を狙われた)、死後の世界(旧約時代において、イスラエル人は死後の世界を、人類に共通する墓であるシェオル(新改訳「よみ」)における非常に実体の薄い、影のような存在である、と考えた。そこは暗やみで、何もしない場所であり、神をほめたたえることもなく、富める者も貧しい者も、善良な者も邪悪な者も、すべてそこに行く。何か良いことへの希望が言い表されることは、ごくまれなところ)を意識せざるを得なかった時、敵のやり方とは正反対に、敵のやり方とは違って、そういう時こそ豊かな養いを与え、喜びを溢れさせて下さったからだということです。でも、そのような死を意識せざるを得ない状況下ではなく、「主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らす」ような神殿で過ごしたいと述べたのだと思います。
しかし、非難と攻撃のそのような場でこそ寄り添って下さる神さまが傍にいて下さるところこそが主の家なのです。
私たちは平時の時も、たましいが生き返った状態でいたいと思いますし、困難苦難の時は尚更だと思います。
神さまは、私たちが自ら主の家から遠ざかるような時でも、困難苦難に遭遇し、神さまのところに帰れば、「よく帰ってきたね」とだけ言って、一言もさばきのことばをかけられません。その時、私たちはこの家にいつまでも居たいと心底思うのではないでしょうか・・。
ダビデが生涯かけて出会った神さまは、そして詩篇23篇全体が提示している神さまは、あなたの面倒は牧者であるわたしが、あなたが家にたどり着くまで見ますと言って下さる方なのです。そこは、私たちが帰り、そしていつまでも住みたいと心底願う主の家なのです。