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  • 佐々木 優

「あなたは今も私の仲間だ」

2024年5月5日(日)

ヨハネ21:15~17には、イエスさまを三度知らないと否認してしまったペテロが回復に向かっていく場面が記されていました。イエスさまは三度ペテロにわたしを愛していますかとお尋ねになりました。1回目と2回目は「アガパオー」(神さまから出る愛で、相手が何かしてくれなくても自分が与える無私の愛、相手に見返りを求めない愛)で尋ね、三回目は尋ね方を変えて「フィレオー」(もう少し幅の広い人間的な要素も含んだ親しい者の間の愛、友情、友愛)で尋ねられた。

 ここから、このように理解しました。それは、ペテロの思い(「先生、私はアガパオーの愛で先生を愛することはできません。私の愛は取引き程度の愛でしかありません。」のような)を汲み取り、ペテロに寄り添い、ペテロの現状を肯定し、その愛で十分だよ、「アガパオーです」なんて言わなくていい、偽りのない生き方はその正直さなのですよと伝えようとされたのではないか・・。

 このようなイエスさまの寄り添う姿からは、19節の「わたしに従いなさい。」は日本語のニュアンスとしては合わない感じがします。しかも18節で、自分が望まないところに連れて行かれる可能性がある・・将来的には殉教の可能性を否定できないという深刻な話しの後に「わたしに従いなさい。」は、やはり寄り添うイエスさまの流れからは合わないように思います。

 この「従う」という日本語が当てられているもともとのことばは、新約聖書全体で90回くらい出てきます。そして日本語はほとんど「ついていく」とか「従う」という訳がつけられています。このもともとのことばの意味は、「先に行く人のあとをついて行く」「お供する」「同行する」「付き添う」「同伴する」と、みんな似たような意味ですが、違うニュアンスの意味で「〜の仲間である」という意味もあります。このことばならば、イエスさまとペテロのやり取りでのイエスさまの温かさや優しさがにじみ出る流れの中でしっくりくる表現だと思います。

 イエスさまはペテロの欠けを指摘し、従えなかったことを指摘し、鍛え直すようなことをしたかったのではなく、「あなたは今も私の仲間だ・・あなたには私と一緒にいてほしい」と伝えようとされたのではないでしょうか・・。


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