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「『信じません』に注がれる恵み」

  • 佐々木 優
  • 4月27日
  • 読了時間: 7分

2025年4月27日(日)

テキスト:ヨハネの福音書20:24~29 (新約聖書228頁)

 

 トマスは、ペルシャに宣教しインドで殉教したと言われています。共観福音書、マタイ、マルコ、ルカでは12弟子のリストの中程に登場するだけですが、ヨハネの福音書ではいくつかエピソードが残っていて重要な役割を果たしています。私たちはなんとなくラベル貼りをしていて、トマスは疑い深いと批判の目を向けるかもしれません。しかしヨハネはトマスをどのように描いたでしょうか・・。

 第一に、「勇気があった」ということです。

ヨハネ11章16節「そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。『私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。』」

 ラザロのよみがえりの場面です。イエスさまがユダヤ地方に戻る際の危険を見抜いて、忠実さと勇気をもって呼びかけをしているというそういう場面です。

 第二に、「知らないことは知らないと言えた」ということです。

ヨハネ14章5節「 トマスはイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。』」

 「分かりません」と言える勇気と謙虚さを持っていたということです。

 第三に、「自分軸を持っていた」ということです。

 トマスは簡単に流されてしまわない自分のスタンスを持っていたようです。他の人がイエスさまのよみがえりを見たと言っても簡単には動きません。そして証拠を求めました。

 ヨハネの福音書全体の構造の中で、今回取り上げている箇所はこのヨハネの福音書の構造の中で結論部分に入っています。20章30節31節を見ますと、この福音書の執筆理由を述べて福音書を閉じているように見えます。どう見ても締めくくりの記述です。それで21章は何か理由があって後から付け足したと考えた方が自然です。その理由は、当時、教会の重鎮になっていたペテロとヨハネの立場を説明したかった・・。イエスさまを三度否認したペテロはもう大丈夫・・。死なないとのうわさが流れたヨハネのこと・・。なにか初代教会で擁護する必要があったのだろうということです。そのように自然に考えますと、ヨハネの20章29節がヨハネの福音書の鍵の句ではないかということです。

20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

 「見ないで信じる人たちは幸いです」これは叱っていることばではなく、これからは教会の時代が来る。しるしを見る時代ではなく、信じるだけで良い、すごくシンプルな新約の恵みの時代が来る、その恵みの宣言であり、それを伝えるためにトマスの出来事は重要だった。つまりヨハネが結論を伝えるために記録されたのがトマスエピソードだということです。

 ヨハネの福音書の根底に流れているテーマがあり、それは「見る」「信じる」この2つです。本日のトマスエピソードでは、20章27節「それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」見ることと信じること、これがヨハネの福音書のテーマになっていて、そのことに焦点が合っているトマスエピソードを最後にもってくるということだろうと思います。

 トマスは、共観福音書では12弟子のリストぐらいにしか出てこないのですけれども、ヨハネだけは非常に詳細な記録を残しています。記録を残すということは気になっていたということです。トマスの存在はそのまままるごとヨハネが伝えたいことだった。トマスこそ、イエスさまの恵みがどういうものかを表していると言いたかった。トマスこそ、イエスさまのいのちに与かる、よみがえりのいのちに与かるとはどういうことかを表していると言いたかった。それでヨハネはトマスの出来事を結論部分にもってきたということだと思います。これらのことを心にとめた上で、よみがえりのいのちに触れるということについて、このトマスエピソードから覚えたいことは

 第一に「たまたま、やっていただく恵み」ということです。

 トマスは1番大切な時にその場にいなかったのですが、それには深い理由などなかったのだと思います。一生懸命でもたまたまいなかったりする。たまたまいなかったのは一生懸命でなかったからでも不信仰だったからでもない・・。自分なりの見通しがいつの間にかたまたまの出来事に流されてしまう・・これが人生かもしれない。人生は全部分かりきるものではありません。自分でコントロールもできない・・。自分で納得できないこともたくさん起きます。たまたまいないようなそこが恵みの場になる可能性がある・・。これがトマスエピソードが語るイエスさまの恵みなのです。イエスさまは、たまたまいなかったトマスだけのためにもう一度同じことをされました。トマスがお願いしますと求めたのではありません。イエスさまの方から来られました。

 2番目に、「信じません」にドッと注がれるということです。トマスは言いました。「信じません」と。イエスさまのいのちが注がれるのはいわゆる私たちが考える霊的に整えられるとか、あまり関係がないようです。喜びとも関係ありません。勝利とも関係ありません。満たしといわれるような宗教体験とも関係ありません。感情的高揚とも関係ありません。それではどういう場面がイエスさまのいのちに与かる場面になるのでしょうか・・。平安なんかない時です。トマスがいのちに与かったのはイエスさまから平安があるようにと言ってもらわなければならないような状況でした。信仰などない時です。トマスは信じませんと言い切りました。そこでいのちに与かっていきました。

 三番目に、「与える側が恵みに与かる関係」ということです。

トマスがイエスさまのところに行ったのではありません。イエスさまがトマスのところに来られました。何のためでしょうか・・。トマスに安心してほしかった・・20章26節にこのように書いてあります。

20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

 御手を指し伸ばして、いかにも上から目線ぽい・・。こんな感じだとイエスさまらしくまったくありません。それでこれはもしかしたら、イエスさまの側にニーズがあったのではないか?イエスさまがトマスを必要としておられたのではないか・・。イエスさまの側に「トマスへの申し訳なさ」があったのかもしれない・・。一生懸命十字架までついていこうとした弟子たちはみんな去っていきました。トマスもその一人・・イエスさまからしてみれば、なんでお前たちは去っていったんだではなくて、巻き込んでしまって悪かった・・そういうお気持ちがあるいはあったかもしれない・・

 そしてこの場面はイエスさまがトマスに仕えて下さったと言えるのではないか・・。イエスさまはトマスの足りないところをけん責したのでもなく、指導したのでもなく、教えたかったのでもなく、ただ仕えて下さった・・。仕えたかった・・。たましいのケアはニーズのある対象に何かをやってあげる作業ではありません。その方向性自体間違っていて・・。仕える側がそれを受けて下さる方を必要とする・・仕える者がそれを受けて下さる方から教えられる・・。仕える者がそれを受けて下さる方から恵みを受ける・・。仕える者がそれを受けて下さる方にニーズを満たしていただける・・。イエスさまはトマスにこういう接し方をして下さったのではないか・・。一見逆に見えるそのような関係が成立する時、イエスさまの恵みがドッと注がれるのだと思います。

 トマスエピソードはイエスさまがトマスに仕えて下さった。トマスを必要とされた。トマスから教えられたのではないか・・。

 イースターの時は、イエスさまのいのちに触れる・・。イエスさまのいのちに与かる・・。というよりは、イエスさまのいのちが私に触れるのです。


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