「見えない方からの返答があったから」
- 佐々木 優
- 10月5日
- 読了時間: 5分
2025年10月5日(日)
テキスト:使徒の働き10:40~44 (新約聖書255頁)
ペテロが、コルネリウスに、私たち(コルネリウスとペテロ)に幻の中で語りかけて下さった御方、イエスさまとはこのような御方ですと伝えている箇所の続きから、43節を中心に見て行きます。
(43節:預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。)
「この方」イエスさまは、100%神である方なのに100%人間となってこの地上に生まれ、「巡り歩いて良いわざを行い」「悪魔に虐げられている人たちをみな癒す」働きをされた方です(38節)。しかし、律法学者・パリサイ人たちを中心にしたユダヤ人はイエスさまを十字架につけて殺してしまいました(39節)が、神さまはイエスさまを三日目によみがえらせました(40節)。
神さまは私たち一人ひとりに異なるものさしを持っておられ、聖なる基準がありながらも、判定されるときには一人ひとりの摂理、それぞれが生きてきた環境、文化、状況などを最大限考慮し、公平な判定をなさる御方です。そしてその働きを委ねられたのがイエスさま(「さばき主」)(42節)です。
「この方を信じる者はだれでも」聖書の信仰の定義はシンプルです。信仰とは見える世界から見えない世界への小さな勇気です。信仰は大きく膨張するものでもありません。かけてみる小さな勇気です。それがあれば神さまの前にはそれで十分というのが聖書の発想です。小さな勇気があれば信仰があると認定されるのです。神さまからの恵みがあるからそれだけでいいんだという受け止め、その小さな何かを神さまは大切にして下さるのです。
「その名によって罪の赦しが受けられる」イエスさまによって罪の赦しが受けられます。「罪」とは、人間の先祖アダムが自分の自由意志を用いて、いのちの木の実に手を出し、神さまとの距離ができ、その後、アダムとエバの長男カインが弟アベルを殺してしまった(創世記3章~4章16節)ことによって物理的に「罪」というものが人間に入ったということではなく、あくまでもスピリチュアル(霊的)な問題です。神さまの聖さというスピリチュアルに合わない、届かない、そういう人間のスピリチュアルのことです。
聖書が示す「罪」の概念には、「恥」(人の評価に基づく恥)や、「咎」(自分の行動に責任を感じる罪責感)や、「存在の恥」(自己存在の惨めさから来る不全感)などが含まれますが、自己存在の恥とは、低い自己イメージであったり、自己受容ができないであったり、自分という存在を消し去りたいというようなことが深く関係していると言われます。このような自己存在の恥は赦されることでは解決されず、受容されることが必要なのです。
イエスさまは、人間それぞれが生きてきた環境、文化、状況などを最大限考慮される公平な判定をされる方ですが、聖書が文化を用いても書かれているということから、「罪」の定義も文化の影響を受けている以上、単純に普遍的だとは言いきれないでしょう。
例えば、旧約聖書(ヘブル社会の罪の概念、いのちの神さまから離れたこと)、新約聖書(ヘレニズム社会の罪の概念、本来あるべき姿から離れた的外れ状態)、アメリカ(西洋個人主義的社会の罪の概念)、アフリカ(民族文化社会の罪の概念)、日本(アジア的な罪の概念、和を乱す、お天道様、他人様に申し開きができないこと)というように各々の文化によって「罪」の概念にはばらつきがあります。「罪」は相対的だということではなく、聖書の文化(ヘブル文化、ギリシャ文化)から描き出せる、ある程度普遍的で、どの文化でも通用する「罪」の定義を表すとすれば、「罪」とは、いのちの源である神さまから離れ、本来愛されている自分の姿に気づかずに的外れな生き方をしている状態と言えます。
神さまは私たちに「罪」を教えて下さる時、神さまが置いて下さった文化というツールを用いられるということです。日本人には日本文化を用いて「罪」を教えて下さるのです。
ペテロが、コルネリウスに、そして集まった異邦人にイエスさまを伝えていた時に、コルネリウスたちが抱いた「罪」の概念はギリシャ文化から抱く「罪」の概念「本来あるべき姿から離れた的外れ状態」だったのだと思いますが、コルネリウスと集まった異邦人たちの生きていた世界はローマ皇帝を神として崇める世界でした。しかもコルネリウスはローマのイタリア隊の百人隊長でしたが、「彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。」(10:2)人で、「正しい人で、神を恐れ、ユダヤの民全体に評判が良い百人隊長」(10:22)でした。
そのコルネリウスがなぜ天地万物を創造された見えない神さまを信じたのでしょうか・・。それは、天地万物を創造された見えない神さまに問いかける(いつも神に祈りをささげていた)と返答があったからと言えるでしょう。信じる対象を実感できたのです。ローマ皇帝では実感できなかったものが実感できたのです。
44節「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。」
コルネリウスと集まった異邦人たちは、ペテロが伝えるイエスさまこそ、10:36「イエス・キリストはすべての人の主です」ということに小さな勇気を持ったのでしょう・・。その時に「聖霊が下った」(44節)のです。すなわち、「罪の赦し」(43節)、神さまと霊的に離れていたことの解消および行為罪の赦し、「恥」「咎」「存在の恥」がまるごと赦され、受容されたのです。