「神さまの働きかけ、私たちの幸せのためにーお膳立てをし、公平感で生きられるようにー」
- 佐々木 優
- 10月19日
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2025年10月19(日)
テキスト:使徒の働き11:1~18 (新約聖書256頁)
「この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」(10章43節)コルネリウスと集まった異邦人たちは、ペテロが伝えるイエスさまこそ、「すべての人の主です」(10章36節)ということに小さな勇気を持ったのでしょう・・(信仰は、かけてみる小さな勇気)。その時に「聖霊が下った」(10章44節)のです。神さまと霊的に離れていたことの解消および行為罪の赦し(10章43節)、聖書が示す罪に含まれる「恥」「咎」「存在の恥」がまるごと赦され、受容されたのです。
神さまはこの時、異邦人もユダヤ人もすべての人がイエスさまに対する信仰、かけてみる小さな勇気で、罪赦され、神の家族(教会)に加えられることを目に見える形で証明して下さったのです。明白な証拠を見せられたペテロは即座にコルネリウスたちにバプテスマを受けさせました(10章47,48節)。水のバプテスマはイエスさまを信じた人が罪赦され、神の家族(教会)に加えられたことを公に示す外的な宗教行為です。
コルネリウスたち異邦人も神の家族に加えられたことはユダヤ人にとっては信じがたい(神さまの救いはユダヤ人だけのもの)、あまりにも大きな出来事でした。それは、神さまがすべての人(国籍、文化、社会的立場、過去の経歴等に関係なく)を愛しておられることをはっきりと見せて下さった出来事だったのです。
ペテロはエルサレム教会に戻り、コルネリウスの家で起こった出来事について説明しますが、ユダヤ人の信徒たち、特に「割礼を受けている者たち」(2節)は、この知らせを聞いてペテロを非難します。彼らの批判は、「あなたは割礼を受けていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした」(3節)というものでした。これは単なる食事の作法の問題ではなく、当時のユダヤ人の信仰者たちにとって、異邦人と食事を共にすることは、律法上の汚れにつながる、非常に重大な問題でした。
ペテロはこの非難に対して事の経緯を丁寧に説明します(4~17節)。
11:16 私は主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によるバプテスマを授けられる』と言われたことばを思い起こしました。
11:17 ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じたときに私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」
これらのペテロのことばを聞くと、
11:18 人々はこれを聞いて沈黙した。そして「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。
とあります。
本日の聖書箇所から2つの点を覚えたいと思いました。
1.難局を打開する神さまの方法
ユダヤ人たちにとって、神さまの救いはユダヤ人だけのものであるという固定観念は覆されることのないものでした。それが覆されたのは聖書から簡単に言ってしまえば聖霊の働きということになりますが、そのお膳立てとして、神さまがコルネリウス(ローマのイタリア隊100人隊長)に語りかけていたということがあったからだと思います(10章2節:彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。)。コルネリウスは天地万物を創造された見えない神さまに問いかけると返答があったと感じていたのだと思います。
当時、ローマ人にとっての主はローマ皇帝でしたので、コルネリウスと異邦人たちが創造主なる神さま、イエスさまを主とすることは命がけのことでした。にもかかわらず信じたということはユダヤ人にとっては認めざるを得ない信仰告白だったはずです。しかもローマの100人隊長という名誉・地位のある人物がその職が奪われる可能性をも覚悟したであろうその告白のインパクトはあまりにも大きかったと言えるでしょう。
神さまがいつでもこのような人物を用意されるとは限りませんが、しかし、この時、異邦人にもイエスさまと共に生きてほしいという神さまの熱い思いはコルネリウスに語りかけるという形であらわれたのだと思います。
2.多種多様な人々で形成される神の家族
コルネリウスはユダヤ人にも多くの施しをし(10章2節)、ユダヤの民全体に評判が良い人物でした(10章22節)。地位ある人だから貧しい人々に多くの施しをするということができたという面もあるでしょう(もちろん大金持ちでも一銭も施さない人もいます)。しかし、神さまが呼び集めて形成される神の家族は、多種多様な人々で形成され、見える世界(施し等)も、見えない世界(見えないところで豊かに働いておられる神さまの世界)も潤されているのです。特に見えない世界の潤しは、小さき者・貧しき者から教えられ与えられているという面があるのだと思います。自分には無いところを他の人が代わりにして下さっているのです。
神さまによってすべての人が公平にあつかわれていると納得できるのは天国に行ってからだと思いますが、天国へと続くイエスさまと共に生きるこの地上でも、神さまは多種多様な人々によって公平感を感じさせて下さっているのだと思います。
神さまは今も、私たちの幸せのために、私たちには分からない方法でお膳立てをし、極度な不公平感を覚えずに生きられるようにして下さっているのだと思います。