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「どんな人のことも」

  • 佐々木 優
  • 6月29日
  • 読了時間: 5分

更新日:7月3日

2025年6月29日(日)

テキスト:使徒の働き10:23(b)~36 (新約聖書254頁)


 復活されてまもなく、イエスさまはペテロに言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」(ヨハネ21:18)自分が望まないところに連れて行かれる可能性がある。そして将来的には殉教の可能性を否定できないというイエスさまのおことばだったと思います。

 ペテロにとっては望ましくはない不快感を覚える幻(ユダヤの律法が食べることを禁じた物をイエスさまから食べなさいと言われる)に出て来た食物は異邦人のことを指していたのだとペテロは分かったと述べています。

(28節:その人たちにこう言った。「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。)

 ユダヤ人と異邦人がこのように交流することはユダヤの律法違反であり、そのことは異邦人もよく知っていた。しかし、神さまはペテロに「どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを」教えて下さった。

(34節~35節: そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。)

 神さまは常に公平な方であり、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられますとあります。

 聖書全般から分かることは、神さまはやさしい天のお父さまだということです。ですので、「神を恐れ」とは、厳しい裁判官のような方として神さまを意識するということではありません。神さまという御方は神さまであり当然私たち人間とは違うので、天地万物を創造され、全知全能なる、私たちには及びもつかない御方であるのですが、私たちをジャッジし罰を与えるような恐い方ではなく、常に、やさしく寄り添い(私たちに仕えるようにして)、養って下さる神さまとして共に生きるということだと思います。

 「正義を行う人は、神に受け入れられます」とありますが、その判断は常にフェアな神さまがして下さることなので、私たちがこれで神さまに受け入れられるに違いないと努力をしてもそれによって受け入れられるかどうかは分からないのです。ですので、私たちは自分の心の中身をチェックするのではなく、ただただ神さまの恵みによって生かされているから、神さまから与えられているすばらしい賜物を存分に生かして生きていくのです。

(36節:神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。)

 神さまは、はじめにイスラエル民族を通して神さまが存在していること・・神さまが人類を愛しておられ、愛する人類一人一人と一緒に生きて下さる御方であることを示して下さいました。そして後には、「イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました」

 エペソ人への手紙2:14~17にはこう記されています。

2:14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、

2:15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、

2:16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

2:17 また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。

 イエスさまはユダヤ人と異邦人を一つにするために十字架にかかられたのです。

また、同じエペソ人の手紙の3:5~7にはこう記されています。

3:5 この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。

3:6 それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。

3:7 私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。

 使徒パウロはユダヤ人と異邦人を一つにするためにイエスさまが十字架にかかられたという良き知らせを伝える者にして頂いたと述べています。

 すなわち、『使徒の働き』の中心のテーマもこのことだと言えるでしょう。そして、福音という意味の中心もこのことだと言えるのではないでしょうか・・。「どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならない」ということです。人の尊厳を踏みにじることだけを神さまは悲しまれると言っても過言ではないと思います。信仰を持っていない人も受け入れましょうというようなことではありません。もっと身近なところから、自分は上、あの人は下というような序列を作ってはいけないのです。ある意味、これだけだとも言えるのではないでしょうか・・。そのような意識を持ちながら、それらのこともイエスさまがして下さると信じて生きていければいいなと思います。

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