2021年5月2日(日)
「みことばを思い起こさせる祝福」
テキスト:ヨハネの福音書14:25~27(新約聖書215頁)
聖霊は聖なる霊であり、姿、形はない。しかし、単なる神の力とかではない。それは、以下のみことばからも分かる。「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」(マタイ28:19)。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(Ⅱコリント13:13)。聖霊は、父なる神、子なる神イエス・キリストと同様に真の神である。
父なる神、子なる神イエス・キリストとは違う聖霊の特徴をハイデルベルグ信仰問答はこう述べる。「この方はわたしに与えられたお方」である。父なる神が私たちを超えた神であり、子なる神が私たちと共にいる神であるとすれば、聖霊なる神は私たちの内に働かれる神であると。聖霊によってイエス・キリストの諸々の祝福が我々のものになるのである。その働きはイエス・キリストの業とことばを思い起こさせて現実化することにある。聖霊はその働きを通して私たちにその存在が分かるのである。
25節「これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。」イエス様は様々なことを弟子たちに話された。それは父なる神様のことばであった(ヨハネ14:24「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」)。この時のイエス様はもうじきに、弟子たちと別れなければならず、直接、肉眼で見える形でイエスの容姿をもって弟子たちに語ることはできなくなる。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(26節)しかし、聖霊は弟子たちに、すべてのことを教え、イエス様が地上で弟子たちに語られたことば(父なる神様のことば)を思い起こさせるとある。「内住の聖霊はみことばを思い起こさせて下さる」のである。
この時(この後、イエス様は宗教指導者たちに捕らえられ十字架にかけられていく)、周囲の雰囲気からすでに不穏な雰囲気を感じていたと思われる弟子たちは言いようもない不安に襲われていた。そして、イエス様の昇天後には現実に迫害の手がのびて来る。その時、弟子たちはまさしく27節のみことばを思い起こさせられたであろう。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」イエス様は「わたしの平安を与えます」と言われた。ヘブル語のシャローム「平和」は、単に問題がないという意味ではない。私たちの最も善きものを育てるすべてのものを「平和」という。これから十字架上の苦しみに向かっていかれるイエス様は「平安」だったのである。まさしく「世が与える」平安ではなかったのである。
内住の聖霊はみことばを思い起こさせて下さる。 聖書に記されている神様の御旨を教えて下さるのである。「この世にはない平安」は、聖霊によって、みことばを教えられ、みことばを思い起こさせて頂くことによって与えられるのである。それこそが、聖霊によってイエス・キリストの諸々の祝福が我々のものになるということであり、イエス・キリストの業とことばを思い起こさせて現実化するということである。
2021年5月9日(日)
「イエス様の恵みを現実化する聖霊」
テキスト:ヨハネの福音書14:16(新約聖書214頁)
カルヴァンは、「神の恵みはことごとく体をなしてキリストに宿る。そのキリストの恵みを現実化するのが聖霊の働きである」と述べている。
イエス様は聖霊をこのように言われた。「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(ヨハネ14:16)
「助け主」、聖霊は、天に帰られたイエス様に代わって「永遠に私と共にいてくださる」方である。神様の永遠性とは、私と共にいてくださるための御性質でもある。
「助け主」(ギリシャ後パラクレートス)は、困難や、苦悩や、疑惑や、あるいは当惑のもとにある人を助けるために招き入れられる弁護する専門家を指すことばである。聖霊は私たちの不完全を取り除き、私たちが物事を、人生をうまく処理することができるようにして下さる。イエス様を信じた私たちの内に住んでおられる聖霊はそのような御方である。
コロサイ人への手紙1:27には、「あなたがたの中におられるキリスト」という表現があるが、私たちの内におられる聖霊はイエス様に代わって私たちの内におられる御方なのである。聖霊はイエス様の恵みを現実化するのである。
2021年5月16日(日)
「聖霊が臨む時に受ける力とは」
テキスト:使徒の働き1:4~8 (新約聖書232頁)
4~5節「使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。』」イエス様は弟子たちとの別れの時、すなわち昇天の時に、「エルサレムを離れない」ようにと命じられた(弟子たちはガリラヤに戻ることを考えていたのかもしれない)。その理由は、「聖霊によるバプテスマを授けられるから」ということであった。「聖霊によるバプテスマ」とは、人がイエス様を自分の罪からの救い主として信じる時に、その人をキリストの内にある者とし、キリストの体と統合させる聖霊の働きを指すと共に、イエス様を信じる一人一人をキリストの教会という一つの団体に結束させて、その教会をキリストのからだ、キリストの手足のごとくに用い、救い主キリストを証しするための聖霊の力づけのことを指す。しかし、弟子たちには、「聖霊によるバプテスマを授けられる」という意味が理解できていなかったのであろう。なぜならば続く6節には「そこで」とあり、「そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。『主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。』」という問いかけをしているからである。弟子たちは「エルサレムを離れないで」と言われたことや、「聖霊によるバプテスマを授けられる」と言われたことから、何か特別なことが起きるのではないかと思い、今こそ、イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくださるのですかという問いかけをしているのである。その願いは、当時のユダヤ人全般が切望していたことであり、神の民として選ばれたイスラエルが何故、ローマ帝国の属国となり、様々な憂き目に遭うのかという払しょくできぬ疑問から発せられたものであろう。弟子たちの「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」という言葉には、依然として弟子たちがイエス様に抱いているメシヤ像(人間の業を超えている強大な力を持ってイスラエルを導いていくリーダー)が変わっていないことが表わされている。弟子たちにはイエス様が神政国家を再建されることを期待して、つき従ってきたという面が多々あるからである。そんな弟子たちの問いかけに対してイエス様は答えられた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。」(7節)あなたがたが抱いている地上での神の国は間違っているし、そのような野望は抱くなと言われた。そして、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(8節)と、地上での神の国とはこのようにして造られていくのだと言われた。聖霊が臨む時、あなたがたは力を受け、エルサレム、すなわち、身近な人々、自分のまわりから、ユダヤとサマリヤの全土、すなわち、弟子たちの出身地、故郷、そして地の果てにまでイエス様の証人となると言われた。聖霊が臨むことによる賜物には色々な賜物がある(Ⅰコリント12章、等々)。しかし、「使徒の働き」が示す何よりもの聖霊の賜物は、イエス様の証人として生きるための聖霊の力づけである。その力づけとは、弟子たちがイエス様について証言する時、助け主なる聖霊が彼らを助けることを指す。(ヨハネ16:7)
イエス様の贖いの十字架・復活を宣べ伝える福音宣教の働きは、イエス様の十字架・復活の後、イエス様が父なる神様のもとから遣わす助け主としての聖霊と、イエス様のみことばと御業の目撃者である証人とが共に宣べ伝えていくのであるが、イエス様の証人とは、イエス様に起こった十字架と復活の事実を証言する人ということである。イエス様の十字架と復活の出来事が自分の人生に何をもたらしたのかを証しするのである。イエス様を自分の神であり、罪からの救い主であると信じた時に、自分が犯した数々の罪の行為の赦しが与えられ、神様との交わりが回復された事実を証しするのである。その証言をする時、助け主なる聖霊が私たちを助けて下さるのである。
2021年5月23日(日)
「聖霊はイエス様を証しされる」
テキスト:使徒の働き2:1~47 (新約聖書233頁)
本日は教会歴のペンテコステ、聖霊降臨を記念し、感謝する日である。
イスラエルには三大祭があった。第一は「過越の祭り」、第二は「七週の祭り(五旬節:過越から七週間後)」、そして第三は「仮庵の祭り」。この祭りに、イスラエルの壮年男性は必ずエルサレムに巡礼して参加することが義務付けられていた(出エジプト23:14、出エジプト23:17)。
5節「エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいた」とあるが、「住んでいた」とは「滞在していた」という意味であり、過越の祭りに来て、「七週の祭り」までの約50日間、そのままエルサレムに滞在していたということを表している(二つの祭りのために容易に往復できる距離ではなかった者たちが多くいた)。
使徒とイエス様の母や兄弟たち、イエス様に従ってきた女性たちが集まっていると、「すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。」(2節3節)今日の私たちがこの超常現象を理解し尽くすことはできないが、「この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。」(6節)とあるように、天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こった故、大ぜいの人々が集まって来たのである。この超常現象は聖霊を象徴しているのであろうが、神様はこのような超常現象をもって、目には見えない聖霊が、イエス様を信じる一人一人の内側に宿ったということが現実に起こったのだと分かるようにして下さったのであろう。
この超常現象後に、すなわち、聖霊降臨後に使徒たちは、地中海世界全域に離散していたユダヤ人の様々な国の言葉で語り始めた。「皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」(4節)話し始めたその内容は、イエス・キリストの生涯、十字架、復活の出来事だったのであろう。そしてその後のペテロの宣教(イエスの死と復活の意味について語る)によって、約3,000人の人々が信じ、洗礼を受け、使徒たちのグループに加わり、キリストの教会が誕生していった。
本日の聖書箇所から更に4つの点を覚えたい。
①「神様の約束はその時が来ると成就する」
イエス様は「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)と言われた。1節「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。」使徒たちは約50日間、約束を信じて待っていた。そしてその時が来ると約束は成就した。
②「聖霊はクリスチャンにイエス様を証しさせ、その聖霊の御業は人知を超えている」
4節「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」集まっていた使徒たちのほとんどがガリラヤ周辺出身であり、使徒たち全員が他国のいろいろなことばで話せるわけがない。しかし聖霊はイエス様の証しを示し、語らせる。しかも聞く人々が分かるように。
③「聖霊はイエス様を証しする者にみことばを思い起こさせて下さる」
ペテロは聴衆の心に響くように、旧約聖書のみことばを語る。それは聖霊がみことばを思い起こさせて下さったのである。
④「聖霊はイエス様を証言する弟子たちを助け、同時に、世の誤りを明らかにする」
ヨハネ16:8には「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」とある。そしてその通りの事が起こったのである。
36~38節「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
2021年5月30日(日)
「聞く耳のある者は聞きなさい」
テキスト:マルコの福音書4:1~20(新約聖書71頁)
イエス様は種蒔きのたとえを話された。聞いている群衆の中には、イエス様の暗殺を相談していたパリサイ人(マルコ3:6)、イエス様を悪霊呼ばわりしている律法学者たち(マルコ3:22)もいた。しかし、イエス様の弟子や、その教えに熱心に耳を傾ける人々もいた。イエス様が語る救いへのみことばに対して聞く者の聞き方が問われていた。
当時、種を蒔く人は畑の中の足で踏みならされた細い道を通り、種を蒔いた。種を蒔く人はできるだけ広く種が蒔かれるように腕を広げて種を蒔いた。したがって種は道端や岩地や茨の中にも落ちた。たとえの中の種はイエス様が語る救いへのみことばであり、「道端」「岩地」「茨の中」「良い地」は聞く者を指している。
①「道端と表現された聞く者」
15節「道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。」
②「岩地と表現された聞く者」
16、17節「岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」
③「茨の中と表現された聞く者」
18、19節「茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。」
④「良い地と表現された聞く者」
20節「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」良い地に蒔かれた者とは、イエス様の救いへのみことばを聞いて受け入れた者のことである。そして、その者を通して、イエス様を信じる者が起こされていく神様の御業を三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶと表現している。
聴衆の中には、パリサイ人・律法学者たちのように、イエス様のことばと行いを通して現れる神様の救いの力と恵みを意図的・意識的に拒絶する者たちがいた。それは「聖霊をけがす」罪(マルコ3:29)であり、人を救いに導こうとする聖霊の働きかけを意図的・意識的に拒絶するならば、その人に罪の赦しの術はないのであり、イエス様はこのように表現された。「彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。」(12節)
種蒔きのたとえの最初の三つのタイプは、警告として群衆に語られたことばであった。そして、四つ目のタイプは、弟子たちに対する激励のことばでもあった。福音のことばを宣べ伝えていっても、四分の三は実を結ばないというのである。75%の人々は、せっかく聞いてくれるところまで来ても、結局離れていってもおかしくはないのであると。元々、福音宣教の働きというものは、実に多くの無駄に思えるようなそのような働きなのであると。だから、実を結ばないことに失望してはならないと励ましておられるのである。無駄に思えても、すべてが無駄に終わるのではないと励ましてくださっているのである。福音に耳を傾け、実を結ぶ者が必ずいるのだと励ましてくださっているのである。種を蒔く者とは、イエス様ご自身である。イエス様ご自身が私たちを用いて、みことばという種を蒔いてくださっている。
イエス様は言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」(9節)福音のみことばを聞く耳のある者が必ずいるのである。
2021年6月13日(日)
「みことばの聞き方に注意しなさい」
テキスト:マルコの福音書4:21~25(新約聖書72頁)
本日の箇所でイエス様が伝えようとされた中心的なメッセージは、みことばに対する「聞き方に注意しなさい。」ということです。聞いている群衆の中には、イエス様の暗殺を相談していたパリサイ人(マルコ3:6)、イエス様を悪霊呼ばわりしている律法学者たち(マルコ3:22)もいました。本日の箇所は、特に、このパリサイ人、律法学者たちに向けて語られたみことばだと考えられますが、同時に、このみことばを聞いていた他の多くの群衆に対して語られたみことばでもあります。
イエス様は「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。」(21,22節)と言われました。「明かり」とは、イエス様が語られてきた神の国の奥義のことです。イエス様が説き明かされるまでは誤解されていたような事柄を、その真意を明らかにしてくださった神の国の奥義です。
例えば、イエス様は「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。」(ルカ6:20)と語られました。当時の多くの民衆は律法学者たちの教えにより、貧しい者は神様の祝福を受けていない者だと思っていたのです。しかしイエス様は、現実に食べる物もなく、ただ神様に頼る以外には生きる術のない者は、実は最も幸いな者なのですと語られたのです。それは、当時の民衆にとっては驚くべき発言であり思想でした。イエス様は、今まで誤解されてきた神の国の奥義を説き明かし、暗闇のようになっていた世界に、人々の心に「明かり」を灯されたのです。そのようなすばらしい「明かり」を灯した後に、その「明かり」を隠しておくというようなことをする者がいるだろうか?と語られたのです。イエス様は、「明かり」は今、わたしを通して灯されていると語られたのです。
ユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた民であると自負していました。特にパリサイ人、律法学者たちは、自分たちこそ最も神の国に近い、選ばれた者だと誇っていたのです。しかし、イエス様は彼らに忠告するのです。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」(24,25節)イエス様のみことばに聴くという者は、みことばを自分の生活に適用し、実践し、そして、みことばの通りであったと、神様の恵みを覚え、心が満たされていきます。神様によって恵みが増し加えられるのです。しかし、イエス様のみことばを、あげ足をとるために聞く者や、パリサイ人、律法学者たちのように、イエス様のみことばを必要としない者には、選ばれた民というその事実さえも意味をなさなくなるというのです。事実、紀元70年には、ローマ帝国によってユダヤの神殿は崩壊させられてしまいました。
私たちは、主のみことばに聞く耳を持っているだろうか・・。主のみことばの「明かり」に照らされて生きるお互いでありたいと願います。
2021年6月20日(日)
「神の力によって造り上げられる神の国」
テキスト:マルコの福音書4:26~32(新約聖書72頁)
本日の箇所は、イエス様が救いへのみことばの種を蒔き、そのみことばを信じた者たちの成長、信じる者の増大のことが語られている。神の国とは、神様が支配しているところであり、キリストの教会も神の国の最たるところである。
2つの点を覚えたい。
①「神の国は徹頭徹尾、神様の力によって造られる」
種の成長は神秘的であり、それは神様の力による成長である。福音宣教の業は、神様がイエス・キリストの十字架・復活による救いのみことばの種を蒔き、信じる者が起こされていく。そして、実が熟し、鎌を入れる世の終わりの時が来る。これら全ては、神様の支配の中で導かれていく。人がイエス・キリストの十字架・復活による救いのみことばを受け入れるのも、信じた後の成長も、キリストの教会が造り上げられていくのも、徹頭徹尾、神様の力によるのである。
②「神の国の拡大の預言の成就」
からし種の成長のたとえは、イエス様の弟子たちの福音宣教の働きに対する将来の預言であり、希望を与えるメッセージであった。事実、聖霊降臨後の弟子たちによって、イエス・キリストの十字架・復活による救いのみことばを信じる者の数は増え広がっていった。これらも全て、神様の力によってなされていくのだということをイエス様は強調されたのである。
2021年6月27日(日)
「命尽きた瞬間に」
テキスト:ルカの福音書23:32~43 (新約聖書170頁)
ふたりの犯罪人が、イエス様とともに十字架にかけられた。34節に「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』」とある。ここで使われている「分かっていない」(「無知」)は、知的欠陥というより、罪のある状態を示す用語として使われている。すなわち、神様から的を外した状態を指す。人は神様から的が外れている結果として行為罪を犯すのである。34節後半から38節には、的外れ故のひどい行為が記されている。
39節には「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、『おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え』と言った。」とあるが、はじめは犯罪人の二人共がイエス様を罵っていたと、マタイ、マルコの福音書には記されている(マタイ27:44、マルコ15:32)。しかし、ルカの福音書には、悪口言う犯罪人の一人に、もう一人の犯罪人が彼をたしなめて言ったとある。「『おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。』そして言った。『イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。』」(40~42節)イエス様は金曜日の夜に捕らえられ、急遽行われた裁判は夜を徹して行われた故、イエス様が何の罪に問われ十字架刑に処せられているのかを、この犯罪人は知るよしもなかった。故に、十字架刑に処せられるほどの重罪を犯したが故に十字架刑に処せられているのだろうと考えるのが普通ではないだろうか。イエス様のうわさ(病人の病を治し、死人をも生き返らせた等の数々の奇蹟を行い、神様は愛なる御方であることを説き明かすすばらしい人物)は耳にしていたかもしれないが、いずれにしても、「この方は、悪いことを何もしていない」と確信し、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」という言葉が出たのは、自分を罵倒し、侮辱の残虐行為を行っている者たちに対して、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」と祈るイエス様の姿を見たからと言えるであろう。
犯罪人の一人は、祈るイエス様の姿を見て、イエス様は神であると信じたのである。その犯罪人の一人にイエス様は言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」パラダイスということばは、囲いのある庭園を意味し、そして、神の住まいである天の国を表している。
2つの点を覚えたい。
①「命尽きていく犯罪人が最後に頼ったものは」
人は自分の命の最後には何を信じ、頼るのだろうか?
②「命尽きた瞬間にイエス様と共にいるという喜び」
伝道者の書12:7には「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」とある。イエス様を神であると信じた犯罪人の一人は、命尽きていく間際に、イエス様に全てを託し、命尽きた瞬間に天国に行ったのである。どんなに苦しかった人生でも、理不尽に思うことが多々ある人生でも、命尽きた瞬間に神様のところに行き、悲しみ、苦しみ、痛みのない者として永遠に神様と共に生き続けるという神様の約束がある。
2021年7月4日(日)
「必ず困難は降りかかるが」
テキスト:マルコの福音書4:35~41 (新約聖書73頁)
イエス様と弟子たちが舟に乗り、湖の向こう岸へ渡っている時、突風(ガリラヤ湖は周囲を山に囲まれた、すり鉢状の地形の底にあり、気温の変化により、突風が不意に山から吹き下ろし、湖面を激しく打った。特に夕方は突然の嵐が頻発した)が湖に吹き下ろし、弟子たちは水をかぶって命の危機にさらされました。しかしイエス様は、そのような状況の中で、ぐっすりと眠ったままでした。弟子たちはイエス様を起こし「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」(38節)と訴えました。イエス様は起き上がって、風と荒波とをしかりつけられると風も波も収まりました。すると、イエス様は「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」(40節)と弟子たちに言われました。
4つの点を覚えたいと思います。
①「神様が共におられていても困難は起こる」
・神様が共におられるから困難なことは起きないと思ってはいけない
・イエス様は嵐が起きることを知っておられた。しかし、そこでは死なないことも知っておられた。私たちは知り得ないものを知ろうとし過ぎるのかもしれない。
②「信仰はひとっとびに完成するものではない」
・40節「まだ信仰がないのですか。」
弟子たちは、イエス様が数々の病人を癒し、悪霊につかれた人から悪霊を追い出すなどの御業を見てきた。しかし、自分たちに降りかかってきた命の危機に際して、イエス様への信仰に欠けがあった。
・弟子たちの信仰は聖霊が内住するまで未熟であった。そして、聖霊内住後も、イエス様の父なる神様への信仰には及ばなかった。この地上にあっては完全なる信仰には至らない。
③「それでもイエス様の父なる神様への信仰に倣ってこの地上を生きる」
37、38節「すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。」
④「全てを支配しておられる御方が共におられる」
39節「イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。」
2021年7月11日(日)
「古いものは過ぎ去った」
テキスト:マルコの福音書5:1~20 (新約聖書73頁)
イエス様はガリラヤ湖を渡り、デカポリスと呼ばれる10の都市が自衛や通商のために同盟を組んだ地域に近いところにあったギリシャ文化に染まった、ユダヤ人とは全く異質の異教世界のゲラサ人の地に行き、悪霊につかれた男から悪霊を追い出した。
3つの点を覚えたいと思います。
①「人は肉体に霊を宿して生きている」
創世記2:7「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」
今日において人は肉体に生まれたままの霊を宿しているか、あるいは、イエス様を信じて与えられる聖霊を宿しているか、あるいは、本日の聖書箇所にあるように悪霊を宿してしまっているということもないとは言えない。
②「イエス様は悪霊につかれ苦しんでいる人を救うためだけに異教の地に足を運んだ」
・悪霊につかれた人は、おそらく長い間、治療ということで、彼の居住地から追い出され、住む人のいない山の中腹の墓場に隔離されていた。この男に住みついた悪霊はレギオン(古代ローマの6千人の軍隊の意味)と名乗った。それは、強力に人を壊すような悪霊であることを示していた。
・マルコ5:21を見ると、イエス様は悪霊につかれた人を助けると、すぐにまた舟で向こう岸へ渡られたことが分かる。イエス様は、長い間、悪霊につかれて苦しんでいるこの人を助けるためだけにゲラサ人の地に来て下さったのである。
③「新たな命で生きているという自覚の大切さ」
悪霊を追い出してもらった男は、二千匹ほどの豚の死の事実によって、悪霊が出て行ったことを確信できた。そして、その喜びが彼を福音宣教へと駆り立てた。
私たちのおいても、聖霊を宿して生きているという、新しい命で生きているという自覚が大切である。
Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
2021年7月18日(日)
「恐れないで、ただ信じていなさい」
テキスト:マルコの福音書5:21~43 (新約聖書74頁)
ヤイロは会堂司という職務に就いていた。会堂司とは、ユダヤ人の礼拝堂の指導者、安息日の礼拝の責任を負う人物。自ら聖書の朗読や祈りなど、礼拝の司会も行う。説教者を指名し、集会全体を取り仕切る。礼拝堂の建物の管理などの任にもあたる、民の長老の中から選ばれた者。ユダヤ人社会にあっては、人々の尊敬を集める職務であった。ヤイロは小さい娘(ルカ8:42によると、十二歳ぐらいのひとり娘)の命の危機に瀕して、イエス様の足元にひれ伏して自分の家に来て娘の上に手を置いて娘の命を死から救って欲しいと懇願した。
3つの点を覚えたいと思います。
①「神様は私たちの懇願を聞いて下さっていると確信することの大切さ」
ヤイロの懇願を聞いて、イエス様が娘の所に向かったということは、すでに、イエス様が危機からの脱出を約束して下さっていたということである。
Ⅰヨハネ5:14~15にはこのような約束がある。
「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」
②「神様の救出方法は無数にある」
ヤイロは娘が救われる方法は、娘が生きているうちにイエス様が来て、娘の上に手を置いて下さることであり、これ以外にはないと思っていた。
③「問題を目の前にしてすべきことは、恐れないでただ信じ続けようとする心」
イエス様一行がヤイロの家に向かおうとしたところに、十二年の間長血をわずらった女性がイエス様の衣に触るという出来事が起こり、一行は足止めされるというような状況が起こった。ヤイロの心境は落ち着くことのできない、恐れで一杯になるような状況だったに違いない。そして、イエス様が娘の所に到着する前に、娘が亡くなったとの悲報が届いた。しかし、イエス様はヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われた。
イエス様が到着し、娘を生き返らせた時、「人々は口もきけないほどに驚いた」とある。この驚いた人々の中にはヤイロも含まれていたと考えられる。娘が亡くなったとの悲報が届いた時、イエス様はヤイロに、娘を生き返らせると告げたのではないので、生き返った時に、口もきけないほどに驚いたのは当然のように思われる。
娘の悲報が届き、万策尽きたと思われる、絶望のどん底のような時に、ヤイロに求められたことは、イエス様は人間の考えを超えた最善をなして下さると信じ続けること、そして、それ故に、恐れなくていいと自らに言い聞かせ続けることだったのである。
2021年7月25日(日)
「あなたの信仰があなたを救ったのです」
テキスト:マルコの福音書5:21~34 (新約聖書74頁)
本日は、「十二年の間、長血をわずらった女」が癒された出来事から学びます。
「長血」がどのような病なのか正確には分かりませんが、出血して止まらない子宮の病であると考えられています。
旧約聖書レビ記15:25~27には「女に、月のさわりの期間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出があるか、あるいは月のさわりの期間が過ぎても漏出があるなら、その汚れた漏出がある間中、彼女は月のさわりの期間と同じように汚れる。 その漏出の間は、彼女の寝た床はすべて、月のさわりの時の床と同じようになる。彼女が座った物はすべて、月のさわりの間の汚れのように汚れる。だれでも、これらの物に触れた人は汚れる。その人は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。」と記されています。本来、このような規定は女性の健康を守る趣旨であったようですが、しかし、このような血の流出はイスラエルにおいては、宗教的に、そして社会的に汚れた者とされ、公の集会に出席することを禁じられ、他人との交際を絶たれ、孤独な日々を送らざるを得なかったのです。この女性は「汚れている」「清くない」という烙印を押し当てられ、彼女に触れた者は汚れるとされ、身体的な苦痛のみならず、心理的、宗教的、社会的な苦痛を背負わされてきたのです。
26節には「彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。」と記されています。
しかし、この女性はイエス様の衣にさわり、出血が止まりました。イエス様は一瞬だれがさわったのか分からなかったようですが(地上におられたイエス様は100%神であり、100%人間でもあった)、神様はこの女性を癒されました。
「だれがわたしの衣にさわったのですか。」と捜すイエス様を見て、「彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。」(33節)すると、イエス様は彼女に言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(34節)
本日の箇所から3つの点を覚えたいと思います。
①「神様はご自分の方から全ての病人を治そうとされるのではない」
大勢の人々がひしめき押し合っている状況の中でイエス様にふれたのはこの女性だけではありませんでした。しかし、この場において病が癒されたのはこの女性だけだったのです。聖書から見ると、病が癒されることが全て神様のみこころであるとは言い切れません。
②「病気を治してほしいという必死な思いに応えて下さる神様」
「汚れ」の問題により、この女性が正面きってイエス様に近づいて行くということは非常に勇気のいる事柄でした。しかし、この女性はどうしてもこの病から解放されたかったのです。28節には「『あの方の衣にでも触れれば、私は救われる』と思っていたからである。」と記されています。この女性の癒しの出来事は、イエス様が「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われた通り、この女性の信仰(どうしても助けて欲しいという必死の願いと、神様なら治すことができるという信仰)を見て、神様が癒しの御手をのばされたのです。
③「病の苦しみのみならず不随する全ての苦しみから救って下さる神様」
イエス様は言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(34節)
神様はこの女性の身体的病のみならず、この女性が苦しんできた全ての状況からこの女性を救われたのです。この女性はこの後、宗教的・社会的な復帰を果たしていったことでしょう。神様はこのような救いの御業を成してくださる御方なのです。そして、「健やかでいなさい。」と述べてくださるのです。
2021年8月1日(日)
「神のみことばに耳を傾けないのなら」
テキスト:マルコの福音書6:1~6 (新約聖書76頁)
本日の聖書箇所から教えられるのではないかという点を2つあげました。
①「無理やり信じさせようとはされない神」
イエス様は言われました。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」(4節)イエス様の郷里の人々、親族、家族がイエス様を神であると信じることは大変に難しかったようです。彼らはイエス様の生い立ちを知り、イエス様の30歳頃までの成長を身近に見てきたのです。そのような人々がイエス様を神であるとすんなりと信じるのは確かに難しかったのでしょう。イエス様はそんな彼らには病人を癒す等の神の御業をなすことはしませんでした。しかし、5節「何人かの病人に手を置いて癒やされ」ることはされました。その違いは何でしょうか・・。癒された何人かには、いくばくかでもイエス様を神であると信じる思い、この御方なら治してくださるという思いがあったのでしょう。しかし、イエス様の郷里、親族、家族にはこの時、そのような思いがなかったのだと思います(母マリヤは違うかと思いますが)。神様は、神様という御方に期待をかけることのかけらもない人々に、神様の奇蹟的な御業を見せてまで神様を信じさせようとはされないのです。
②「イエス・キリストを神と信じるられるか否かはみことばを信じられるかどうかにかかっている」
イエス様を神であると信じられるか否かは病の癒し等の神様の御業を目撃するかどうかにはかかっていないのです。イエス様は郷里の人々の不信仰に驚かれた後、近くの村々を巡って神様のことを語られました。(6節)神様のみことばを語られたのです。神のことばを信じるかどうかにかかっているということは以下のイエス様のたとえ話からも分かります。
ルカの福音書16:19~31
ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。 彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。 金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
2021年8月8日(日)
「偽善者のようにはならずに」
テキスト:マタイの福音書6:1~8(新約聖書9頁)
パリサイ派の者、パリサイ人たちは、身分は一般に高くなく、手工業などに従事する中流階級の者で、律法への服従の生活を何よりも大切なこととする個人の自覚に基づいて党派が形成されている。イエス様の時代のパリサイ派は、政治的影響力は低かったが、この派に属する者の数は多く、ユダヤ最大のグループであり強い影響力を持っていた。彼らは律法を厳格に解釈し、できるだけ忠実に実行しようとした。彼らの律法解釈は、「昔の先祖たちの言い伝えに従う」解釈であり、やがて複雑な体系となり、「父祖の伝承」として口伝を形成する。彼らは儀式律法的なきよめをさまざまな形で実行した。パリサイ人たちの考えは、割礼や安息日の律法、食べ物に関する律法、洗いきよめに関する律法など、いわゆる「儀式律法を守らなければ救われない」というものであった。パリサイ人たちは、彼らが考えているような意味で割礼を受け、安息日を守り、祭りを守り、あれこれの律法の儀式を守りさえすれば、他はどんな生活をしていても救われると考えていた。
イエス様はパリサイ人たちのことを偽善者たちと述べている。「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。」(5節)彼らが施しをするのも、祈るのも、その目的は人にほめられたいためであった。
本日の聖書箇所から2つの点を覚えたい。
①「神に愛されている者として生きる」
私たちは、人にほめられたい、人によく見られようとする性質を持ち合わせている。私たちは愛されたいという根本的な願望を持っている。神様はどんな時でも私たちを愛していてくださる。しかし、この信頼に欠けがあると、私たちはそれを補おうとし、人にほめられようとすることに奔走しやすい。
②「イエス様に倣って生きる」
イエス様はパリサイ人たちに、「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。」(ルカの福音書13章15節)と、また「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか。」(ルカの福音書14章5節)と言われた。
安息日は祝福を与えるためにあるのであって、自由を奪うためにあるのではないとイエス様は教えている。パリサイ人たちは律法の本当の意味を見失っていた。形だけにしがみついてその行ないを誇っていた。律法が求めているのは、律法の要求を完全に満たしていたイエス様のように生きることであった。イエス様には偽善がない。イエス様には父なる神様に愛されていることに対して微塵の疑いもない。
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」(1節)
私たちは、人にほめられたい、人によく見られようとして生きる生き方から解放されたいという願いを持っているのではないか。そのためにはイエス様に倣って生きることが必要なのである。そのように生きようとする私たちに内におられる聖霊は助けて下さるのである。
2021年8月15日(日)
「主の十字架は赦す者へと変える」
テキスト:イザヤ書43:25 (旧約聖書1,239頁)
私たちの心と体に様々な影響を与えるものにストレスがあるということは言うまでもないでしょう。そして、そのストレスの大きな要因は人間関係であると言っても過言ではないと思います。
罪ある世界に生きている私たちは、人からの言動によって心に傷を受けてしまう者でしょう。そして、私たちは、自分の心に傷を負わせたと思う人を赦せないという感情に支配されてしまう者なのだと思います。
山口勝政師は、赦しを与えることができないのは、相手の違反行為によって受けた傷をいつまでも覚えていて忘れることができないからだと述べています。そして、赦すということは、相手の違反行為とそれによって受けた傷を忘れることであるといってよいと思いますと述べています。
イザヤ43:25「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」このみことばは、神様が罪を犯したイスラエルの民の罪をもはや思い出さないと宣言された約束のみことばです。
赦しについて3つの点について覚えたいと思います。
①「神様の赦しは完全な赦しである」
私たちは神様の愛に反して罪を犯してしまうものです。しかし、神様は、イエス・キリストによる十字架の赦しの故に、私たちの犯した罪を二度と思い出さないと宣言されました。完全に忘れて下さるのです。
②「神様が私を赦して下さったように自分も人を赦すことにおいて、赦せないという思いから解放されていく」
エペソ人への手紙4:32にはこのようなみことばがあります。「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」神様は、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、そして、よみがえられたことにおいて私たちを赦して下さいました。私たちの罪を神様が忘れて下さったから、私もあの人が私を傷つけた言動を忘れますと神様に申し上げていく時に、私たちに癒しのプロセスが始まっていくのです。
③「赦しのプロセスがなされていくか否かは、キリストの贖いの犠牲の十字架による」
私たちが自分を傷つけた人を赦すのは、容易なことではないと思います。山口勝政師も忘れるためには時間も必要ですと述べています。
聖書は、自分を傷つけた人を赦すことができるのも、できないのも、それは私たちの側の何たるかには関係がないと述べています。赦しのプロセスがなされていくか否かは、イエス・キリストの贖いの十字架を見上げるかどうかにかかっているのだと・・。私を愛し、私のために命を捨てて下さったイエス・キリストを思う以外にはないのだと・・。
2021年8月2日(日)
「全き愛は恐れを締め出します」
テキスト:Ⅰヨハネ4:16~19(新約聖書483頁)
16~17節「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。」
神様は、ご自身との愛の交わりのうちに私たちを回復してくださるために、御子イエス・キリストを遣わし、私たちの罪の代価を支払ってくださいました。御子イエス・キリストの十字架を通して表された神様の愛は、一回限りで終わってしまう愛ではありません。その愛は、今も、後も、とこしえに変わることがありません。
この広大な宇宙の中の無数の被造物のすべてを支えていて、ご自身は何も失うことがない、無限に豊かな神様が、あたかも、私たちがご自身のものでなければすべてが失われてしまうかのように、ご自身の御子のいのちの価をもって、私たちをご自身のものとしてくださいました。神様は、私たちが永遠に神様のものであり、どのようなことがあってもそれは変わらないことを宣言してくださっています。
19節「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」
神様は、これらすべてのことを、私たちに対する一方的な愛によって成し遂げてくださっておられます。それが、ご自身の一方的な愛によっているということは、私たちからの「報い」を期待してのことではないということです。しかし、私たちは、神様に「報いる」という意味で自分が何かをしなくてはならないのではないかと考えやすい者ではないでしょうか?
そのような発想が私たちの中にありますと、神様にきちんとお返ししていない自分のことを、神様が「怒って」いるのではないかというような「おびえ」を感じたりします。そして、自分をむち打って、熱心になって、何とか神様を喜ばせようとしてしまったりし、そのようにして、神様が喜んでくださったように思える時には、神様を近くに感じられたり、そのようにできなかった時には、神様が御顔を背けておられるように感じられたりしてしまいます。
なぜ、このような、神様に「報いる」という意味で自分が何かをしなくてはならないのではないかという発想を持ってしまうのでしょうか?それは、私たちの内側に住みついている罪の性質である自己中心性によって、誰かに対して「報い」を求めるという自己中心的な「計算」をするというものがあるからかもしれません。あるいは、自己保身ゆえ、自分を守るための手段として神様を愛そうとしているのかもしれません。いずれも、それらは罪の性質から出てくる歪んだ発想であり、このような発想は、明らかに神様のみこころではありません。
17節「こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。」ここで、「さばきの日に確信を持つことができます。」と言うことができるのは、「自分がちゃんとやっていないから神様が怒っているのではないか」という「おびえ」とは全くかけ離れたものです。それは、御子イエス・キリストの十字架を通して示された神様の私たちに対する愛を信じていることによる確信なのです。神様の限りない愛に包まれていることを信じて、その愛のうちに充足しているが故の確信なのです。
18節「恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」とありますが、神様の怒りや裁きが恐ろしいからという「おびえ」から私たちが神様を愛そうとすることを神様は望んでおられないのです。
「全き愛は恐れを締め出します。」(18節)御子イエス・キリストの十字架を通して示された私たちに対する神様の愛は限りないものであること、そして、その愛はどのようなことがあっても、私たちから取り去られることはないのです。この神様の愛に立ち、神様に対する歪んだ恐れから解放されていく必要があるのです。
2021年8月29日(日)
「この希望は失望に終わらない」
テキスト:ローマ人への手紙5:1~5(新約聖書304頁)
この手紙を書いたパウロは、クリスチャンであるが故の苦難があることを語ります。しかし、パウロはその苦難さえも喜んでいると述べる。それは、「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと」知っているからだと述べています。(3~4節)
本日の聖書箇所から3つの点を覚えたいと思います。
①「みことばによって苦難さえも喜びに変わる」
「知っている」とは、聖書のことば、神様のみことばを通して知っているということです。この手紙を書いているパウロの時代には聖書は旧約聖書しかありませんでしたが、旧約聖書に登場する信仰者たちは、苦難の真っ只中にあって、神様の約束のみことばを信じて、苦難の先にある、神様の示すところへ進んでいった。パウロは旧約聖書に登場する信仰者たちの姿から、「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」ことを知っていたのである。この「知っている」は単に知的に知っているということではなく、みことばを通して働きかける神様の働きかけにより、人間の努力では得られない硬い確信を持っていたということです。
②「聖霊によって希望は失望に終わらない」
5節「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
パウロは、神様の約束のみことばを根幹とした「希望」は失望に終わることがないと述べる。なぜなら、イエス・キリストを罪からの救い主として信じた者に与えられた聖霊によって、神様の愛がその者の心に注がれ続けているからだと述べています。
③「神の栄光にあずかる望みを喜んでいる」
2節「このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」
私たちには、罪ある世に生きているが故の苦難があります。しかし、イエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じる私たちは、かの日には天国に行くのです。そこには苦難はありません。この希望は苦難をも喜びに変えるのです。
2021年9月5日(日)
「神様からの平安の内に生きるために」
テキスト:マタイの福音書5:43~44 (新約聖書9頁)
イエス様が山上の説教を語られた聴衆は、直接的には、十二弟子を含むイエス様を師として従っていこうとしていた弟子群に対して語ろうとされたという意味合いが強かったのですが、しかし、その場にいた大ぜいの民衆、また、その場にもいたであろうパリサイ人・律法学者たちにも語っておられたと考えることができるでしょう。
イエス様は言われました。「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(43,44節)
聖書で「敵」とは、自分と立場の違う人という意味のことばです。しかし当時のユダヤ人は、律法学者の教えにより、彼らにとっての隣人は、ユダヤ人かユダヤ教徒になった人で、それ以外は敵でした。それで、彼らは、「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と教えられていたのです。しかし、イエス様はそんな彼らに言われました。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
かつて旧約時代に、神様は預言者エレミヤを通して、自分たちを攻撃し、強制連行していったバビロン帝国の平安のために祈れと言われた(「わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』」エレミヤ29:7)。それは戦争中に敵国の祝福のために祈れということでした。聖書はそのように祈ることが私たち一人一人の神様からの平安につながると教えています。
イエス様は自分を十字架に釘付け、侮辱の数々を浴びせる者たちのために祈りました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
私たちは、自分にとって敵と思えるような人の平安を願って祈るなんてことは到底できないと思うのが普通でしょう。しかし、敵と思えるような人のために祈っていくときに神様からの平安が与えられると聖書は示します。
敵のために祈る。それはこの世の基準の生き方とは全く逆の生き方です。この世の基準の生き方とは、この世の「富」がもたらす慰めを求める生き方です。目に見える事柄だけに終始し、目に見える事柄だけに慰めを求める生き方です。この世の基準で生きる者は、この世の基準で報いを受け、裁かれるのだと聖書は示します。
神様はご自分を愛さない者を愛されました。神様は返してもらうことを考えずに(見返りを求めず)与えてくださる方です。自分の敵を愛する生き方をするには、祈る以外にはないのです。そしてそこには神様からの平安があるのです。
2021年9月12日(日)
「そうすれば思い煩いから解放されるから」
テキスト:ピリピ人への手紙4:6~7 (新約聖書399頁)
6節「何も思い煩わないで」と、パウロは述べている。神様の守りを信じているクリスチャンも思い煩う者であるということを前提として述べている。
原文では6節の書き出しは「何事も思い煩うことをやめなさい」という命令文で始まっている。クリスチャンは思い煩いの思いが起こってきても、思い煩わなくてもよい者とされているのだから、思い煩うことをやめなさいと述べているのである。そして、思い煩わなくてもよい者とされていると述べる根拠がその後に述べられている。
それは「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただ」けば(6節)、「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれ」るからだということである(7節)。
なぜ、思い煩って当たり前のようなあらゆる場合に、感謝をもって祈りと願いを神様にささげることができるのかと言えば、祈りと願いによって願い事を神様に知って頂ければ、そうすれば、「すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれ」るということを知っているからだというのです。
「祈り」と「願い」というように分けて表現しているのは、主の祈りの冒頭が「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように」(マタイ6:9)とあるように、まず、始めに、ほめたたえられるべき御方である神様をほめたたえることが、「祈り」と「願い」の「祈り」の部分にあたるのであろう。そして、「祈り」と「願い」の「願い」は私たちの願い事である。
「神の平安」神様が与えてくださる平安は「すべての理解を超えた」ものである。それは、賢者と思われるあらゆる人の考えがもたらす安らぎよりも、人が綿密に計画したあらゆる考えからもたらされる安らぎにもまさるものである。「神の平安」は、私たちの内におられるイエス様が、思い煩いに引き込まれそうになる私たちの心と思いを守ってくれるものである。
そんなにすばらしい約束が与えられているのだから、思い煩いに引き込まれそうになるあらゆる場合に私たちがすべきことは、このすばらしい守りの約束が与えられていることを思い起こし、みことばを信じようとすることである。そして、そこから生まれる感謝をもって、御名をほめたたえ、願い事を神様に知って頂くことである。その時、私たちも思い煩いから解放されるという約束の真理を知るのである。
2021年9月19日(日)
「水と御霊によって生まれなければ」
テキスト:ヨハネの福音書3:1~6 (新約聖書179頁)
ニコデモは、律法学者たちが作り上げた記述律法を守り従うことに生涯をささげて生きることを誓い生きていました。また、そのような生涯を神様が喜んでおられると信じ生きていたと思います。ある程度の名声も得ていたでしょうその生涯において、なお、理由の分からない欠乏感を覚えながら生きていたのだと思います。
その思いを、どのように伝えていいのかも分からずに、そして、パリサイ人でありながら、その心に欠乏感のようなものがあることを言いにくいであろうことを察してくださったイエス様の方から、あなたが言葉化できないその欠乏感を満たすには、新しく生まれなければならないと語って下さいました。
3節「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」
あなたに必要なのは、人間の内的な根本的な変革なのですとイエス様は言われました。そのイエス様のことばに対し、ニコデモは言います。4節「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
ニコデモは、イエス様に、「私に初めからやり直しなさい」と言うのですか?しかも、それは、母の胎にもう一度入って生まれ直さなければならないということでしょうか?と尋ねます。ニコデモは、この御方ならば、もう一度生まれ直させることができるのではないかと思ったのかもしれません。
それに対してイエス様は5節「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」と答えます。「新しく生まれる」とは、「水と御霊によって生まれ」るということなのです。
「水」とは、バプテスマのヨハネが行っていたものを指します。それは、悔い改めを表明する行為でした。「悔い改める」ということばの本来の意味は、「考え方を変える」という意味です。
イエス様を信じて救われるという場合に必要な、「考え方を変える」ということは、イエス様は神であり、人を罪の刑罰から、実生活における罪の影響から救い出す、救い主であるということに、「考え方を変える」ということです。
当時のユダヤ人一般の考え方を例にとると、当時のユダヤ人が待ち望んでいた救い主は、武力をもってローマの圧政から解放するという救い主でしたが、その「考え方を変える」必要がありました。実際には多くの人々が、十字架で処刑されたイエス様につまずいたのです。
ニコデモにとっての、「考え方を変える」も、当然、イエス様は神であり、人を罪の刑罰から、実生活における罪の影響から救い出す、救い主であるということに、「考え方を変える」ということなのですが、それと共に、ニコデモの生き方の全てであった、律法学者たちが作り上げた記述律法を守り従う自分を神様は愛してくださるという考え方を変える必要があったのです。
これが、「水と御霊によって生まれなければ」の「水」が指し示すことです。記述律法を守り従う自分を神様は愛してくださるという生き方そのものがニコデモの人生に欠乏感を与えていたのです。
しかし、記述律法を守り従う自分を神様は愛してくださるという、長年、培ってきた考え方を変えるということは大変に難しいことであり、それは御霊の御業でしかできないのだということです。これが、「水と御霊によって生まれなければ」の「御霊」が指し示すことです。
6節「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」人を「肉」と表していますが、人がなせることは、人がなせることに限定されています。しかし、御霊がなせることは人間の力、人間の命を超えているものなのです。御霊によって生まれる命があるのです。
私たちは、水と御霊によって、イエス様を救い主と信じ、神様との愛の交わりの中に回復させて頂いたお互いです。そして、その後のクリスチャンとしての歩みにおいても、御霊の御業に預かりながら、神様との愛の交わりの中に生かされている者であることを感謝したいと思います。
2021年9月26日(日)
「新しく生まれるということは不思議ではない」
テキスト:ヨハネの福音書3:1~15 (新約聖書179頁)
ニコデモは、律法学者たちが作り上げた記述律法を守り従うことに生涯をささげて生きることを誓い生きていました。また、そのような生涯を神様が喜んでおられると信じ生きていたと思います。ある程度の名声も得ていたでしょうその生涯において、なお、理由の分からない欠乏感を覚えながら生きていたのだと思います。イエス様は、その欠乏感を満たすには、新しく生まれなければならないと語りました(3節)。そして、「新しく生まれる」とは、「水と御霊によって生まれ」るということなのだと語りました。
ここで「水」ということばが指し示すことは悔い改めです。「悔い改める」ということばの本来の意味は、「考え方を変える」という意味です。ニコデモにとっての、「考え方を変える」は、イエス様は神であり、人を罪の刑罰から、実生活における罪の影響から救い出す、救い主であるということに、「考え方を変える」と共に、ニコデモの生き方の全てであった、律法学者たちが作り上げた記述律法を守り従う自分を神様は愛してくださるという考え方を変えるということでした。
しかし、記述律法を守り従う自分を神様は愛してくださるという、長年、培ってきた考え方を変えるということは大変に難しいことであり、それは御霊の神様の御業でしかできないのだということです。これが、「水と御霊によって生まれなければ」の「御霊」が指し示すことです。
「新しく生まれる」ということの解き明かしが理解できないニコデモに対してイエス様は語ります。7~8節「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
人は風の音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分からないのだとイエス様は語ります。しかし、どこから来てどこへ行くのか分からないからと言って、風の存在を否定はしません。風とはそういうものだと思っているからです。そして、御霊の御業で人が新しく生まれ変わらせられるのも同じだというのです。その詳細は分からずとも、人が新しく生まれ変わったのを見て、これが御霊の御業だと知るのだと・・。
それでもなお「新しく生まれる」ということが分からないニコデモに対してイエス様は、ニコデモが熟知している旧約聖書のモーセの出来事(民数記21:4~9)を例にして教えます。そこでは、毒蛇がイスラエルの民にかみつき、多くの民が死にます。しかし、モーセが作った旗竿の上に付けた燃える蛇を仰ぎ見れば生きると神様が言われたことばを信じて仰ぎ見た者は蛇にかまれても生きたのです。イエス様は、ニコデモは毒蛇にかまれたような状態であると教えているのです。しかし、ニコデモも旗竿の上に付けた燃える蛇を仰ぎ見るようにイエス様を見上げることによって救われるのだと語っているのです。目の前にいるイエス・キリストを神であり、自分の罪からの救い主であると信じれば救われると。
15節「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」この箇所では、「信じる」とは、仰ぎ見るようなことであるとなります。イエス・キリストを私の罪からの救い主であると信じることは難しいことではないのだと。「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(7~8節)
ニコデモが抱いていた欠乏感は、神様との愛の交わりが絶たれていたが故の欠乏感でした。その欠乏感を埋めるには、イエス・キリストの贖いの十字架を信じるしかないのだと示しているのです。
2021年10月3日(日)
「イエス・キリストは神であることを伝えなさい」
テキスト:新約聖書マルコの福音書6:7~13 (新約聖書76頁)
イエス様は十二弟子を呼び集め、二人ずつ遣わし始めて、彼らに、多くの悪霊を追い出し、病気を直すための権威をお授けになりました(1節、13節)。そして彼らは遣わされ、人々が悔い改めるように宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やしました。(12、13節)
本日の聖書箇所から、4つの点を覚えたいと思います。
①「弟子たちはイエス・キリストは神であり救い主であると宣べ伝えた」
12節「人々が悔い改めるように宣べ伝え」
並行記事のマタイの福音書10章7節には、「『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。」とあり(神であるイエス様が地上に来られた)、ルカの福音書9章2節、6節には、「神の国を宣べ伝え」、「福音を宣べ伝え」とある(福音:イエス・キリストが人類の罪の贖いのために地上に来られたという良きおとずれ)。「悔い改める」の意味は、「方向を変える」とか「考え方を変える」ということですから、弟子たちが宣べ伝えたこと、イスラエルの民が変える必要があった考え方は、イエス・キリストこそ、旧約聖書で預言されてきたメシヤ(救い主)であり、すなわち神であるということだった。私たちが宣べ伝えることも同じであり、イエス・キリストは神であり、私たちを罪から救う救い主であると・・・。
②「弟子たちはイエス・キリストがあなたを苦しみから解放するということを示した」
13節「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。」
弟子たちは、イエス・キリストは罪から救って下さるのみならず、人々を苦しみから解放して下さる方であるということを目の当たりに示した。今日においても、イエス・キリストは私たちの様々な苦しみに同情してくださり、そこから解放させて下さるのである。
③「宣教は、全面的な神様への信頼によってなされる」
イエス様は、「旅のためには、杖一本のほか何も持たないように、パンも、袋も、胴巻の小銭も持って行かないように、履き物ははくように、しかし、下着は二枚着ないようにと命じられた。」(8、9節)
宣教は人間の力や宣教のための財力によってなされるのではなく、全面的な神様への信頼によってなされるのであると言われたのです。
10節「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまりなさい。」
お世話になる家を決めたならば、その家を神様が備えて下さったと信じ、多少の不満があっても他の家を探さないようにと言われた。
④「福音を伝えたならば信じるか否かはあなたの責任ではない」
11節「あなたがたを受け入れず、あなたがたの言うことを聞かない場所があったなら、そこから出て行くときに、彼らに対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」
足の裏のちりを払い落とすしぐさは、福音を伝える責任は果たしましたという意味があった。あとは、福音を信じるか否かを、伝えた私たちが負う必要はないのだとイエス様は言われた。必ず信じない者はいるのである。
2021年10月10日(日)
「どんな時にも私たちの必要に応じてくださる主」
テキスト:マルコの福音書6:30~44 (新約聖書77頁)
イエス様から権威を授けられ、イエス・キリストこそ、旧約聖書で預言されてきたメシヤ(救い主)であることを宣べ伝え、病人を癒してきた弟子たちは帰って来て、自分たちがしたこと、教えたことを残らずイエス様に報告しました(30節)。
31節~32節「するとイエスは彼らに言われた。『さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。』出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。そこで彼らは、自分たちだけで舟に乗り、寂しいところに行った。」弟子たちは、初めて自分たちだけで行う宣教活動を終え、心身共に疲れきっていたのです。イエス様はそんな弟子たちを思いやり、休ませてあげたいと強く思われたのです。
ところが、多くの人々がこれを知って、ついて来てしまいました(33節)。イエス様は、疲れきっている弟子たちを、どうしても今この時に休ませてあげたかったのですが、羊飼いのいない羊の群れのような大勢の群衆を見て深くあわれ、群衆に必要なことを優先されたのです(弟子たちの休息はこの後に用意して下さる(45節))。
羊は、自分で自分の世話をすることができない動物で、また、他のどんな種類の動物よりも、細心の注意と配慮を必要とする動物なのだそうです。聖書では、神様が私たちを羊と呼んでいるのですが、羊の行動と人間の行動は多くの点で似ているというわけです。私たちの大衆心理(集団本能)であったり、私たちの恐怖心であったり、臆病さであったり、私たちの頑固さや愚かさなど・・。羊飼いは、羊が健康で、栄え、成長していくために、羊飼いの命をいつも羊のために差し出していくような者であり、夜明けから、夜遅くまで、羊の幸せのために油断をしないのだそうです。朝は、早くから起きて毎朝必ず群れの様子を見、夜の間、苦しんだ様子がないか、病気をしている羊はいないか等を調べ、一日の間、何度も何度も、群れに目をやって異常がないかを確かめるのだそうです。夜も、羊が何を必要とするかを忘れないで、片目を開き、両耳を開けて眠る。何か問題が起こった徴候が少しでもあれば、すぐにとび起きて、群れを守る・・これが羊飼いの生活でした。
イエス様には、大勢の群衆が羊飼いのいない羊の群れに見えたのです。そして羊飼いのいない羊の群れのような群衆に必要な多くのことを教えました(34節)が、ご自分があなたがたを養う者、羊飼いであることも教えたのでしょう。そして、現実に飢え、食べることにも困っていた人もいたであろう人々に食べる物も与えたのです(5つのパンと2匹の魚で約1万人ほどの人々の飢えを満たされた)。
神様は自分たちを見捨てず、守り、養って下さることを現実に見せられた群衆はどれほどの安心感を得、嬉しかったでしょうか。
神様は今も、愛する羊(人間)が、疲れきって倒れてしまうことがないように、その必要に応じて下さっているのです。
2021年10月17日(日)
「わたしだ。恐れることはない」
マルコの福音書6章45~52節(新約聖書78頁)
5つのパンと2匹の魚で約一万人の食事を賄った奇蹟を見た群衆は、イエス様をユダヤ人の王にまつり上げようと熱狂しました。そのような危険な状態から弟子たちを回避させなければならないと思われたイエス様は、「弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせて、その間に、ご自分は群衆を解散させておられた。そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれた。」(45~46節)とあります。
弟子たちの漕ぐ舟は、陸からはもう何キロメートルも離れましたが(マタイ14:24)、向かい風のために漕ぎあぐねていました。イエス様は、舟に乗りこむ以前からすでに疲れ果てている弟子たちが更に困難を覚えているのをご覧になり、弟子たちを助けてあげようとされました。
その場にはもう舟がなかったので、湖の上を歩いて弟子たちのところに近づいて行かれました。弟子たちは、イエス様が湖の上を歩いておられるのを見て幽霊だと思い、叫び声をあげ、おびえてしまいました(48~50節)。しかしイエス様はすぐに弟子たちに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。そして舟に乗り込まれると、風がやみました(50~51節)。
イエス様は、弟子たちを助けようと湖の上を歩いて行かれた時、「そばを通り過ぎるおつもりであった」とのことです。それは、疲労困憊の中で遭遇してしまった湖に吹き荒れる風をとめてあげたい、また、師であるイエス様をぬきに弟子たちだけでいることによる休息を取らせてあげたいという思いだったからではないでしょうか・・。
弟子たちは、湖の上を歩いておられるイエス様を幽霊だと思い、おびえました。イエス様が舟に乗り込まれると風がやんだことに、「心の中で非常に驚いた。」とあります。その驚いた理由が52節に記されています。「彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。」この時点ではまだ、弟子たちはイエス様を神であると信じきれてはいなかったということです。
人間が湖の上を何キロも歩くなどということはできません。舟に乗り込んだ瞬間にピタッと風が止むということも・・・・。しかし、神であるイエス様にはできないことはないのです。
私たちもイエス様を見失うと恐れがやってきます。そのような時、イエス様は私たちにも「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけて下さっているのです。何を「しっかり」するのでしょうか・・。イエス様が私と共におられるということに心を向けなおすのです。
2021年10月24日(日)
「眠ることもなく助けて下さる御方」
マルコの福音書6章53~56節(新約聖書79頁)
本日の聖書箇所から2つの点を覚えたいと思います。
①「眠ることもなく苦しむ人々を救おうとされるイエス様」
詩篇121:4には、「見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。」とある。
この時、イエス様は、ほとんど一睡もしていない状態で、苦しんでいる人々を救うために働かれた。
②「助けを求める全ての人々を癒されるイエス様」
55~56節「そしてその地方の中を走り回り、どこでもイエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。」
人が生きていくのは楽ではない。病気があり、様々な苦しみがあり・・。
この時、人々の中には、なかなか治らない病気をかかえている人もいたであろう。不治の病をかかえている人もいたかもしれない。そのような苦しみの中から一縷の望みをかけてイエス様のところにやって来た人々をイエス様は絶対に見捨てない。
イエス様はこのような人々の求めにすぐに応えてあげようとされる御方なのである。
一日でも、一時でも早く治りたいと思う人々は「病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した」イエス様はそのような人々のために、衣の房をさわった人たちをその場ですぐに癒して下さったのである。
2021年10月31日(日)
「それは本当に神様の教えなのか」
テキスト:マルコの福音書7:1~23(新約聖書79頁)
旧約の時代、祭司たちは動物の犠牲等のささげ物をささげる前に、身を水で洗って、きよくする必要がありました(レビ記8:6)。祭司が聖なる物を食べる前にも、水で体を洗って、汚れをきよめなければならなかった。しかし後に、このような規定が拡大解釈され、一般の人が普通の食物を食べる時にも手を洗わなければならないという言い伝えを生み出していきました。パリサイ人・律法学者たちは、そのようにして作り上げられた言い伝えと、旧約聖書そのものに見出される神の戒めとを区別せず、等しく宗教的に権威があるものと見なしていたのです。
イエス様は、そんな彼らに言われた。「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。・・・・あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。」(8節、9節)そして、その具体的な例として、コルバンの問題を取り上げました(10~13節)。コルバン(主へのささげ物)として神様にささげられた物は聖別され、もはや日常の事柄のために用いることはできないとし、例えば、息子が両親に対して、自分の財産は「コルバンである」と宣言すれば、たとい両親が助けを必要としていても扶養義務から逃れることができていたのです。しかしその後、必要に迫られ、宣言取り消しを申し出ても、律法学者は民数記30:2により、「男が主に誓願をするか、あるいは、物断ちをしようと誓う場合には、自分のことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」を引用して取り消しを禁ずるということが行われていたのです。結果、「あなたの父と母を敬え」という人間の幸せのために与えられた十戒のおきてを空文にしてしまっていたのです。
6~7節「イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」パリサイ人・律法学者たちの心は、神様の願っておられる思いからは遠く離れていたのです。その結果、人間が作り出した命令を神様の教えとして民衆に教えていたのです。
18~20節「『外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。』こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。イエスはまた言われた。『人から出て来るもの、それが人を汚すのです。』」食べ物は人の心に入らないので人を汚さないのだとイエス様は言われました。人の心の中から出てくるものが人を汚すのだと・・・・。人を傷つけるのだと・・・。
パリサイ人・律法学者たちは、神様に従う道だと思い込み、良かれと思い、結果的に無数の人間の命令を作り上げていき、人々を傷つけていたのです。神様の御思いは、「父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(マタイ19:19)のようにシンプルなのです。
本日の聖書箇所から自分に問いかけたいと思います。「これが神様の願っていることと思い込んでいたりするが、それが実は、人間が付け加えたものなのではないか?本当に神様が願っていることは何か?」
2021年11月7日(日)
「求め続けなさい」
テキスト:マルコの福音書7:24~30(新約聖書80頁)
イエス様はユダヤの領域を出て異邦人の地方に行かれた。家に入り、弟子たちと共に休息をとっていたところに噂を聞きつけ女性がやって来た。幼い娘が汚れた霊につかれ危険な状態にあるので助けてほしいとの窮状の訴えのためであった。しかし、イエス様はその訴えを退けられた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」(27節)子どもたちとはユダヤ人のことを指し、小犬とは、当時のユダヤ人の習慣では異邦人を指していた。イエス様は、神様の計画の中で、福音が伝えられる順番があることを示された。救い主の到来は旧約聖書の預言の成就であり、その意味合いを正しく把握できるのはユダヤ人のはずであると・・。そこを飛び越え、いきなり異邦人の世界に福音が入っても、イエス様の働きの全容を理解するのは容易ではない。ユダヤ人、そして、異邦人という順序を経て初めて、福音が正しく理解され、すべての人に届くようになるという神様のご計画があった。しかし、女性の必死の求めによって、イエス様は娘を即座に癒された。
本日の箇所から2つの点を覚えられればと思います。
①「神様は常に窮状からの救いを第一とされる御方」
私たちは神様の摂理の中で生かされています。「神様の摂理」とは、私たちに必要なことを予め備えて下さる、毎日どこでも見ることができる神様の御業のことを言います。私たちを愛して止まない神様は、私たちの将来を見据え、良いものを与えようと働いて下さっているのです。
私たちの人生は神様の計画の上を生きているという面があります。しかし神様はその計画を一時休止したり、一時変更したりして下さる御方であることが本日の箇所から分かります。神様は常に私たちの窮状からの救いを第一優先にして下さるのです。
②「神様に求め続ける必要性」
この女性が執拗に窮状を訴えなければ幼い娘はどうなっていたのでしょうか・・。いずれにしても、この女性がイエス様に執拗に窮状を訴えた故に、イエス様は神様のご計画を一時変更して、この女性の窮状に即座に応えて下さったと言えるでしょう。
29~30節「そこでイエスは言われた。『そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。』彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた。」
2021年11月14日(日)
「憐み解き放って下さるイエス様」
テキスト:マルコの福音書7:31~37(新約聖書81頁)
再びガリラヤ湖畔に戻られたイエス様一行のところに、「耳が聞こえず口のきけない人」が連れて来られた。イエス様はその人だけを群衆の中から連れ出し、彼の両耳に指を入れ、唾を付けてその舌に触られ、天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」(「開け」)と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。
本日の箇所から2つの点を覚えられればと思います。
①「何をすればいいのか何を祈ればいいのか分からない私たちを憐れんで下さるイエス様」
34節「深く息をして」の名詞形は、ローマ人への手紙8:26で、「御霊のうめき」を表すのに用いられている。この御霊のうめきは、私たちのために神様にとりなしをしてくださっている「うめき」なのである。内住の罪との戦いに苦しみ、嘆き、何をすればいいのか何を祈ればいいのか分からない私たちを憐れみ、私たちの欠け(祈りも含めて)をすべて覆ってくださり神様にとりなしてくださっている御霊の姿を表現しているのである。御霊は、私たちの「うめき」をご自分の痛み悲しみのように受けとめ、神様のみこころに従って、神様にとりなしていてくださるのである。
耳が聞こえず、口のきけない人は何をすればいいのか何を祈ればいいのか分からなかったのである。イエス様はこの人の痛み、悲しみをご自分のことのように受けとめられたのである。
私たちにも同様に何をすればいいのか何を祈ればいいのか分からないような時があるのではないだろうか・・。
②「イエス様は解き放たれよと言われる」
イエス様は耳が聞こえず口のきけない人に「エパタ」(「開け」)と言われた。「エパタ」には「解き放たれよ」という意味もある。イエス様は何かに縛られ、何かに閉じ込められているような人に向かって「エパタ」と命じられたのである。
2021年11月21日(日)
「その都度知っていく神様の御業」
テキスト:マルコの福音書7:31~37(新約聖書81頁)
人間を罪から救い出すためのイエス様の十字架は、神様の定めた時に行われるのであった。
私たちの生涯に起こることも、神様の定めた時にそのことが起こるのであるが、私たちにはその将来を見通すことはできない。私たちには、この先に起こる出来事を、今、知ってしまったならば、そのことを今は受け止められないということがあるのだと思う。
私たちには、今はまだ知らなくてもよいという神様のなさる御業があるのである。私たち人間は神様に造られた被造物であり、神様が表して下さる御業をその都度知らされていく者なのである。
詩篇139:17~18「神よあなたの御思いを知るのはなんと難しいことでしょう。そのすべてはなんと多いことでしょう。数えようとしてもそれは砂よりも数多いのです。」
2021年11月28日(日)
「今この時と先の希望を与えるメシヤの来臨」
テキスト:イザヤ書9:6(旧約聖書1,181頁)
イザヤ書は、紀元前700年代に活動した預言者イザヤが記した書物であるが(預言者とは、後の時代に起こる事柄についての予告もするが、同時代の人々に神様のことばを預かり宣告した人のこと)、この時代は、アッシリヤ帝国という帝国が強大な勢力を持ち、北イスラエル王国を滅ぼし、征服した国の王侯貴族、指導者、技術者たちを捕虜としてアッシリヤに移住させ、そして、アッシリヤ人をサマリヤの地に住まわせるという捕囚政策が行われた時代であった。
このような悲惨なことが起こった理由を聖書は、真の神に聴き従わず、死人に尋ね求めるということが行われた故であるとしている。その結果、霊的、国家的、環境的暗黒の状態は長く続いた。霊的には預言者は絶え、国家的には他国に隷属して独立もならず、環境的には被支配の苦しみ、激しい困難に合った。それは「死の陰」の地と言われるほどの全き暗黒の時代であった。
しかし神様は預言者イザヤを通して、暗黒の中に住む者たちに、やがて、栄光に輝くキリスト(メシヤ)の来臨が実現することを預言された。来臨するメシヤは幼子の姿で現れるが、神の子であることを預言された。
「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。」とあるが、強調されているのは、「ひとりのみどりごが生まれる。」ということである。「みどりご」とは、メシヤが人間に身を落としたということ。「男の子」とは、男性であるということ、王家の家系における尊厳を表す。「生まれる」とは、人間としての誕生を表し、「主権はその肩にあり」とは、民の肩の重荷はメシヤがその肩に重荷を受け止める時に救われるということを示している。
その方の性質は、「不思議な助言者」、人間をはるかに越えた知恵をもたらす者であるということ。「力ある神」であり、「永遠の父」、永遠にわたって御自分の民を保護し、支え、愛する方であり、「平和の君」、御自身の民に平和を与えられる方である。
神様はイザヤが生きた最暗黒の時代にメシヤ来臨の希望を与えられた。実際にはその預言の成就はその約300年後に成就するのであるが、暗黒のような状況におかれた人間には、その時の希望と先の将来の希望が必要なのであろう。
イエス・キリストの降誕は私たちにも、今とその先の希望を与えるのである。
2021年12月5日(日)
「みことばを信じられるようにして下さる神様」
テキスト:ルカの福音書1:26~38(新約聖書107頁)
父なる神様は、処女マリヤの胎に神であるイエス様を宿すことによって、100%神であり、100%人間であるイエス様をこの地上に誕生させた。
イエス様が100%人間であるためには、人間マリヤの胎から生まれる必要があった。イエス様は十字架上で人間の罪の身代わり刑を受けるために、人間の代表、アダムの代表として、人間としてこの地上に生まれる必要があった。更に、神であるイエス様が人間マリヤの胎に宿るには、聖霊による受胎が必要であった。マタイの福音書1:20には、「その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」と記されている。この聖霊による受胎によって、地上に生まれたイエス様が神であることが明らかにされたのである。しかし、聖霊による処女懐胎をマリヤが信じるというのは大変に難しいことであったはずである。故に、神様は、この後に起こる聖霊による処女懐胎という出来事を、「神にとって不可能なことは何もありません。」(37節)ということを信じられるように以下の事をして下さった。
①御使いガブリエルがマリヤの前に現れ、聖霊によるマリヤの処女懐胎を告げる。(御使いの姿を見、語ることばを聞くという超常現象を見ることによって、信じられるように・・)
②神様のみことばは成就するということを思い起こさせた。(32、33節「神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」いつも神様からの働きかけを思慮深く考えていたと思われるマリヤ(ルカ2:19、2:51)は、ガブリエルのことばを聞き、神様の預言(Ⅱサムエル7:12、16、詩篇89:4等)を思い起こしていたであろう)
③年をとっていた親類エリサベツの懐妊。(子どもが与えられないまま年をとり、不妊の女と言われていた親類のエリサベツの胎に子どもを宿したのは神様の御業)
37節「神にとって不可能なことは何もありません。」の欄外註には、「『語られたことば』あるいは『語られた事柄』の意」とある。「神にとって不可能な語られたことばは何もない」のである。マリヤの胎になされる聖霊による処女懐胎という出来事を信じられるようにして下さった神様は、私たちの生活においても、みことばを信じられるようにして下さいます。
2021年12月12日(日)
「神様の愛に導かれている歴史」
テキスト:ルカの福音書2:1~20(新約聖書110頁)
ヨセフとマリヤは住民登録のために居住地ナザレからヨセフの故郷ベツレヘムに向かう。ナザレからベツレヘムまでは約170キロ、当時では1週間くらいかかった。身重のマリヤにはかなり厳しい旅であった。マリヤはろばに乗って向かったと思われるが、いつ生まれるか分からない赤ちゃんのことを思うと常に不安が襲ってきてもおかしくはなかったであろう。それはヨセフにおいても同じであったであろう。
「神様の摂理」とは、身の周りで起こる全てが偶然によることなく神様によってもたらされており、良いものを与えようと働いていて下さる神様の御業であるが、当然、マリヤの胎から神であるイエス様がご降誕される出来事も神様の摂理の中で起こったのである。
①ベツレヘムでイエス様を産まなければならなかったマリヤ
イエス様の誕生の地がベツレヘムであることは、これより約700年前の預言者ミカが預言していた。ミカ書5:2「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」ベツレヘムはダビデ王の誕生の地であり、御子の誕生の地がベツレヘムであることを神様は定めておられた。神様の摂理の中で、神様は、遠方の異国のローマ皇帝の勅令(公式な法律ではなく、行政指令であろう)を用い、そして、身重のマリヤがベツレヘムに行きイエス様を出産することを定めておられた。著者のルカは、神様を歴史の主であると見ている。
神様は、私たち1人1人の歴史にも、不思議な働きかけをされ、事を動かしておられる。私たちも神様の摂理の中で生かされている。
②家畜小屋でイエス様を産まなければならなかったマリヤ
ルカ2:6~7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」ナザレからベツレヘムにやっとの思いで着いたが、「宿屋」はすでに一杯であった。「宿屋」は家の「客間」をも意味するが、いずれにしても、出産に適したプライベートな場所がなく、二人は牛やろばが寝る家畜小屋に泊まることになった。その夜、イエス様は生まれ、布にくるんで、飼葉桶に寝かされた。そこは動物の様々な臭いもあったであろう決してきれいな場所ではなかった。しかし、マリヤは家畜小屋でイエス様を産まなければならなかったのである。それは、おそらく、この後に訪れる羊飼いたちに、真っ先に、「大きな喜び」を知らせようと神様が計画されていたからであろう。
当時のベツレヘムの羊飼いは、身分的に低く見られ、貧しかった故に、ローマ帝国の人口調査の対象から外され、価値なしと見捨てられていた。特に宗教的には、彼らが安息日を含む宗教上の礼拝に参加しにくかったため、当時の宗教指導者からは人間扱いをされず蔑まれていた。そのような羊飼いたちに、真っ先に、救い主イエス様に会わせるには、羊飼いたちの生活の場である家畜小屋でなければならなかったのであろう。立派な王宮や貴族の館では、羊飼いは、そこに居合わせることはできなかったのである。
イエス様降誕の出来事には、人を愛し、人に細かいご配慮をして下さる神様の姿が表されている。
2021年12月19日(日)
「救い主を求める者に応える神」
テキスト:マタイの福音書2:1~12(新約聖書2頁)
1~2節「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」「ヘロデ王」とは、当時の支配国であったローマによって紀元前40年にユダヤの王に任命され、紀元前4年に死亡したヘロデ大王と呼ばれる人である。東方の博士たちは、バビロンあるいはペルシアから来たと考えられている。バビロンにユダヤ人が捕らえられて行った時(前 597~538年)、旧約聖書に示されている、やがてメシヤが出現するという希望を、バビロンの人々はユダヤ人を通して聞いていたと思われる。ここでの「博士」(ギリシャ語でマギ)というのはペルシアのゾロアスター教の宗教的祭儀に携わる祭司階級の人々であり、天文観測や占星術の専門家であった。ゾロアスター教とは、一般的に拝火教と言われているが、心ある博士は、火を拝むのではなく、火を象徴する光と真理の神を至高神として拝んでいた。博士たちが星を見ていると、不思議な星が見えたので、これはメシヤの来臨ではないかと察知し、協議し、それに違いないと信じて、はるばる砂漠を越え、約1千キロも離れたエルサレムまで約40日間をかけてやって来た。彼らは異邦人でありながら、ユダヤ人を通して聞いていたメシヤの来臨を信じて礼拝しに来たのである。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
東方の博士たちのエルサレムまでの道程は並みたいていの努力ではなかった。彼らが何百年も前にユダヤ人によって伝えられたメシヤ出現の話しに希望を持っていたのも、天文観測をしていて不思議な星を見たからといって、それを「その方の星」だと信じたのも、神様が信じられるようにして下さったのだとしか考えられないのではないか。
そして、それは、この博士たちがユダヤ人によって伝えられてきたメシヤを自分たちも切に求めていたからだと思います。
9~10節「博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」博士たちは、ヘロデ王の言ったベツレヘムに向かって出かけると、東方で見た星が彼らを先導し、幼子イエス様のいる所まで来てとどまり、幼子イエス様が母マリヤと共にいるのを見つけ、ひれ伏して礼拝した。神様は星を用いて博士たちを救い主に出会わせて下さった。そして、救い主を求める人々がイエス様にたどり着いた時には、この上もない喜びがあるのである。
2021年12月26日(日)
「労苦の中にも幸せを見いだすことができる者とされている」
テキスト:伝道者の書5:18~20(旧約聖書1,145頁)
伝道者の書の著者ソロモンは、この世の空しさを見た結果として見えてきた真理として18節のことばを記しました。
「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。」
詩篇139:3には、「あなたは私が歩くのも伏すのも見守り私の道のすべてを知り抜いておられます。」とあります。マタイ10:30には、「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」
人の齢は神様によって定められています。詩篇90:10には、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」とあります。「そのほとんどは労苦とわざわいです」と、ソロモンと同じような視点で述べています。
私たちの人生は労苦しかないと言っても過言ではないのです。そのすべての労苦の中にあって、神様が与えてくださっている「いのちの日数の間」、私たちは、「良き物を楽しみ、食べたり飲んだり」することに幸せを感じて生きることを神様は望んでおられるのです。
19節「実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」私たちが神様から与えられる富と財はそれぞれ違います。労苦の中にあっても、それぞれが与えられているものから楽しんで生きようとする思い、視点、これこそが神様が下さっている賜物なのです。
このような思い、視点で生きようとする人は、20節にあるように、「自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。」のだということです。なぜならば、「神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」ということです。神様が私たちの心を喜びで満たす方法は、労苦の中にあっても、与えられているものから楽しんで生きようとする思い、視点に導くということです。私たちは、「労苦の中にも幸せを見いだすことができる者とされている」のです。
2022年1月1日(日)
「天国を慕いつつ苦難の中を歩む」
テキスト:ヘブル人への手紙11:1(新約聖書451頁)
ヘブル人への手紙は、相次ぐ試練に直面していた一世紀のユダヤ人クリスチャンたちに送られた「勧めのことば」(ヘブル13:22)である。ユダヤ人クリスチャンたちは、ローマ帝国の権力者たちから迫害を受けていた。その迫害に疲れ、信仰生活を捨てようとする者が起こっていた。そのような中、ヘブル人への手紙の著者は、旧約聖書の時代に神様への信仰によって生きた人々の実例を列挙し励ました。見ていない事柄を信じて箱舟を造ったノア(神様は、ノアとその家族と各種類の鳥、動物、地を這うものを含むすべての種類の生き物を大洪水から救うために、巨大な箱舟を造るという救いの計画を示された。箱舟を造り、動物たちを集め、必要な食物を備えることは、想像を絶するほどの大仕事であった。そして120年間余りの長い年月に亘って、神様からのさばきの警告を語るノアとその家族に向けられた嘲笑は絶えることがなかったであろう)。見えない神様を信じて民を約束の地に導いていったモーセ等々。それらの実例は、神様のことばが与えられた時点ではいかにも現実味の薄いものと思われたが、彼らはみな、見えないものに信頼して歩んだ。
「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(1節)旧約時代、神様への信仰によって生きた人々は、地上の生活は永遠に向かう、すなわち生涯を共に歩んで下さった神様の御前により近く進むことであると考え、天の都を慕いつつ、多くの困難・苦難の中を歩んだ。「信仰は、望んでいることを保証し」とは、「信仰は望んでいる事柄に実体を与える」という意味である(「実体」→真に存在するもの)。
ヘブル人への手紙の受信者は、迫害下にあって、イエス・キリストへの信仰を捨てるかどうかの迷いの中に立たされていた。彼らの望みは、もちろん、迫害が収まり、恐怖の下での生活から解放されることであったであろう。しかし、ヘブル人への手紙の著者は、望みとは、仮に死んでも魂は父なる神様の元へ行くということだと示し励ましている。イエス・キリストの復活を信じる者には、私たちに天の御国が用意されていることは真に存在するものとしての確信をさせるのである。
苦難の中に立たされても、私たちも天国を慕いつつ歩み続ける者でありたい。
2022年1月2日(日)
「忍耐をもって走り続ける」
テキスト:ヘブル人への手紙12:1(新約聖書454頁)
ヘブル人への手紙は、相次ぐ試練に直面していた一世紀のユダヤ人クリスチャンたちに送られた「勧めのことば」(ヘブル13:22)である。ユダヤ人クリスチャンたちは、ローマ帝国の権力者たちから迫害を受けていた。その迫害に疲れ、信仰生活を捨てようとする者が起こっていた。そのような中、ヘブル人への手紙の著者は、旧約聖書の時代に神様への信仰によって生きた人々の実例を列挙し励ました。見ていない事柄を信じて箱舟を造ったノア(神様は、ノアとその家族と各種類の鳥、動物、地を這うものを含むすべての種類の生き物を大洪水から救うために、巨大な箱舟を造るという救いの計画を示された。箱舟を造り、動物たちを集め、必要な食物を備えることは、想像を絶するほどの大仕事であった。そして120年間余りの長い年月に亘って、神様からのさばきの警告を語るノアとその家族に向けられた嘲笑は絶えることがなかったであろう)。見えない神様を信じて民を約束の地に導いていったモーセ等々。それらの実例は、神様のことばが与えられた時点ではいかにも現実味の薄いものと思われたが、彼らはみな、見えないものに信頼して歩んだ。旧約時代、神様への信仰によって生きた人々は、地上の生活は永遠に向かう、すなわち生涯を共に歩んで下さった神様の御前により近く進むことであると考え、天の都を慕いつつ、多くの困難・苦難の中を歩んだ。
ヘブル人への手紙の著者は、そのような多くの証人たちが競技場の観覧席から大声援を送っているかのようなイメージで記す。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」ヘブル人への手紙の受信者は、迫害下にあって、イエス・キリストへの信仰を捨てるかどうかの迷いの中に立たされていた。多くの証人たちは、自分たちを支えてくれた神様の真実を証言し、この手紙の受信者たちを激励しているというのである。
手紙の受信者は現に苦難の真っただ中にある競技者である。競技者へのトレーニング方法の1つは、「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて」ということである。苦難の真っただ中にあって、何よりも神様を信頼すべきところであるが、「重荷」となるものは置いていく必要があるのである。私たちにおける「重荷」は何であろうか・・。また、まとわりつく罪、ある特定の罪は、神様への信頼の障害となるのである。神様に祈りつつ特定の罪から離れる必要がある。
私たちに起こる様々の事は神様の知らない中で起こっているのではない。「自分の前に置かれている競走」すなわち、神様のご計画に基づいて与えられているのである。
競技者へのトレーニング方法の2つ目は、その競技は、忍耐をもって走り続ける必要があるということである。「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて」走り続けるのには努力を要するのである。その努力は、多くの証人たちになされた神様の真実という証言を聴くということである。多くの証人たちになされた神様の御業は自分にもなされると信じることである。神様のみことばを信頼して自分の人生という競技を走り続けるのである。
2022年1月9日(日)
「イエスから目を離さないでいなさい」
テキスト:ヘブル人への手紙12:2~3(新約聖書454頁)
ヘブル人への手紙は、相次ぐ試練に直面していた一世紀のユダヤ人クリスチャンたちに送られた「勧めのことば」(ヘブル13:22)である。ユダヤ人クリスチャンたちは、ローマ帝国の権力者たちから迫害を受けていた。その迫害に疲れ、信仰生活を捨てようとする者が起こっていた。そのような中、ヘブル人への手紙の著者は、旧約聖書の時代に神様への信仰によって苦難の中を生きた人々の実例を列挙し励ました。旧約時代の多くの証人たちは、自分たちを支えてくれた神様の真実を証言し、この手紙の受信者たちを激励している。そして、その旧約時代の信仰者たちを支えたのはイエス・キリストであると述べている。
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」(2節)
イエス・キリストは歴史的には旧約時代の信仰者たちよりも後に生まれた方であるが、この手紙の著者はイエス・キリストが旧約時代の信仰者たちに霊感を与えてその信仰を導いたと見ている。
イエス・キリストは信仰の設立者であり指導者である。信仰者としての究極の姿として、「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」ということばで表している。
イエス・キリストは私たち人間の罪を負い、十字架にかかり、私たち人間の代わりにのろわれた者となられた(ガラテヤ3:13)。私たち人間の罪によって引き起こされた神様の怒りをなだめるために十字架にかかられた。イエス・キリストは御自分の神性の力によって、神様の怒りをその人間性において耐え忍ばれたのである。その苦しみも、「ご自分の前に置かれた喜び」という観点からすれば取るに足らないこととして耐え忍ばれたのだと述べている。
「ご自分の前に置かれた喜び」とは何かというと、3節にある「あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」ということである。それは、単に、信仰者の心が元気を失い、疲れ果ててしまわないように・・ということではないであろう。「心が元気を失い、疲れ果てて」のことばが表すこととは、永遠の滅びということであろう。天国に行けないということである。
イエス・キリストは十字架による贖いを信じる者には刑罰が下ることなく永遠の命(神様と共に生きる命)が与えられるという父なる神様の御業を信じ、その喜びのために十字架の苦しみを耐え忍ばれたのである。
このイエス・キリストから「目を離さず」に歩むことが困難の中を歩み続ける術なのである。他のものからきっぱりと目を離し、イエス様を凝視するのである。イエス様の姿に倣い、私たちの前に置かれた苦しみをも、天国が与えられている喜びに目を向けながら歩んでいくのである。
2022年1月16日(日)
「まだ悟らないのですか」
テキスト:マルコの福音書8:1~21(新約聖書81頁)
マルコ6章では、五つのパンと二匹の魚からの五千人の給食の出来事が記されていたが、8章では七つのパンと少しの小魚からの四千人の給食の出来事が記されている。そしてその後、パリサイ人の罪、ヘロデの罪、イエス様の弟子たちの罪の問題が取り上げられている。
①パリサイ人の罪
パリサイ人たちは、イエス様が神様から遣わされたメシヤであることを認めようとしなかった。パリサイ人たちは、本当にイエス様が神様から遣わされたメシヤならば、「天からのしるし」、すなわち、その証拠を見せてくれと要求した。
しかしその要求は、信じたいからそのように要求したのではなかった。イエス様がメシヤであるということが民衆に定着することを恐れて、本当にメシヤならばその証拠を見せろと・・、ほんとうは見せられないのではないかと詰め寄ったのである。しかしイエス様は、そのような動機からの要求に応じてしるしを行うことはないと言った。
イエス様は弟子たちに、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」(15節)と言われた。「パリサイ人のパン種」とは何か・・・。「パン種」とは、他に悪影響を与えるものの比喩であるが、パリサイ人の何が他に悪影響を与えるのか・・。直接的に考えられることは、イエス様が旧約聖書で預言されてきたメシヤであるということを信じられないようにしていく彼らの言動であると言えるであろう。しかし、「パリサイ人のパン種」の根本は、自分たちの行ってきたこと、自分たちの考えを絶対化し、それを客観的に見ることをせず、自分たちの地位を守るために、イエス様の語ることに間違いがあるのだろうかそれとも真実なのだろうかとフラットな心で見ようとしないことにあったと思われる。自己保身のためには何も見ようとしない心である。
②ヘロデの罪
ヘロデ大王の息子、国主ヘロデ・アンティパスは、自分の異母兄弟ピリポの妻ヘロディア(ヘロデ・アンティパスの姪でもある女性)を自分の妻としたことをバプテスマのヨハネに大胆に咎められた。その結果ヨハネは、ヘロデ・アンティパスの怒りとヘロディアの恨みによって殺害された。ヘロデ・アンティパスはヨハネが正しい聖なる人であると知っていながらも、ヘロディアの機嫌をとるためや、自分のメンツを保つために、権力を不当に行使し、残虐非道なことを行った。
③弟子の罪
イエス様は四千人の給食の出来事からも、弟子たちもまだ、イエス様を神であると信じきれていないことを知っていた。イエス様は弟子たちに言われた。「まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。」(17~18節)
「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」、それは簡単に言ってしまうならば、他の人のことを顧みない自己保身、自己中心である。
この時の弟子たちの心の中にもそれらの罪が脈々とあったのである。「パン種」は、ほんのわずかでも粉のかたまり全体を大きくふくらませる。
「悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。」、この問いかけは、神のことばをいかに咀嚼して応答しようとしているかという問いかけである。私たちの心の中にも「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」があることを覚え、みことばを悟る者でありたい。
2022年1月23日(日)
「各々に必要な癒し方をされる神」
テキスト:マルコの福音書8:22~26(新約聖書82頁)
22節「彼らはベツサイダに着いた。すると人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってくださいとイエスに懇願した。」
イエス様はパリサイ人たちが不純な動機(マルコ8:11)でイエス様にメシヤであることの証拠を見せろと要求した時にはその要求を拒否されたが、目の見えない人を連れて来て見えるようにしてあげて欲しいと懇願する人々の求めには即座に応えられた。
イザヤ書の中には、神の救いが来る時には、耳の聞こえない者の耳が開かれ、盲人の目が開かれると、繰り返し預言されている(29:18、35:5、42:7)。盲人の目を開くことは、救い主のあかしとしては特別な意味があった。
この時、イエス様は二度、癒しの御業を行われた。イエス様が同じ人に二度も癒しの行為をしたというのは聖書に記されていない。それは、いつもイエス様は、各々の癒しに、各々に必要な癒し方をもって神様の愛を示しているということの表れであろう。イエス様は神であるので、この目の見えない人を一言のことばで癒すこともできた。しかしこの時は、最初が、両目に唾をつけ、その上に両手を当てて。二回目は、再び両手を両目に当てて癒された。このような癒し方がこの人には必要だったのだろう。この人にはこのような癒し方がなされることによって、イエス様が父なる神様から遣わされた神である救い主であることと、神様が愛しておられることが分かるようにされたのであろう。
私たち人間は各々違う人間である。各々違う性格であり、各々違う弱さも持っている。故に、心の面においても、各々に必要な癒し方があるのである。
今日においても、神様は同じように示される。イエス・キリストは救い主であること、神様は私たちの全てをご存じであり、私たちの弱さも、私たちに必要な癒しもご存じであると。
イエス様は目の見えない人を癒された後、彼を家に帰らせ、「村には入って行かないように」と言われた(26節)。イエス様は奇跡を行う者ということだけがクローズアップされていくことを懸念された。今日、神様が癒しの業をなさる時も、癒すことだけに意味があるのではない。神様は癒すことのできる御方であることが示されるのはその通りであるが、神様は私たちの全てをご存じであり、私たちの弱さも、私たち独自に必要な癒しもご存じであるということを示されるのである。
2022年1月30日(日)
「主に従う者とは」
テキスト:マルコの福音書8:27~9:1(新約聖書83頁)
イエス様は「人々はわたしをだれだと言っていますか。」(27節)と12弟子に尋ね、12弟子は「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」(28節)と答えました。人々とは、イエス様から神の国のことを聞き、病を癒され、また、七つのパンと少しの小魚で満腹になるほど食事をすることができた約1万人の人々のことです(8:1~10)。この人々のイエス様に対する無理解は、これまでの伝道活動でいかにイエス様が自己証言を慎んでこられた(7:36、8:26等)のかということの表れでもありました。イエス様がしようとされた自己証言は、受難のメシヤということでした。それは、この後に起こる、人類の罪を贖うための犠牲の十字架によって示される神の奥義でした。この時の人々の理解は、イエス様がどんな方なのか分からないが病を癒すことができるすごい人物だということであったり、あるいは、当時のイスラエルの民衆の一般的な理解であった、ローマの国から武力をもってイスラエルを解放する政治的なメシヤだったのです。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(29節)とのイエス様の問いに対して、ペテロは弟子を代表して「あなたはキリストです。」(29節)と答えました。それは、あなたは神様が任命された偉大な職務の遂行のために油注がれた者、きたるべき救い主ですという告白でした。この告白は、寝食を共にし、まじかにイエス様の行われる御業を目撃してきたペテロだからこその理解であり、また何よりも神様がペテロに働きかけ示してくださったが故にできた告白でした(マタイ16:17参照)。しかし、そのペテロのイエス様理解でさえも、イエス様は「自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた」のです(30節)。それは、ペテロをはじめとする弟子たちのイエス様理解も、この時点ではまだ、一般民衆のメシヤ理解よりは少しばかり進んだ理解に近い状態であったからです。そのような理解のままイエス様がメシヤであるということが群衆やエルサレムの宗教指導者たちに知らされても、それは彼らの誤解と敵意をいたずらにあおるだけになるからでした。
イエス様が「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」(31節)と、はっきりと話されるとペテロはイエス様をわきにお連れして、いさめ始めました(32節)。しかしイエス様は振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(33節)それは、ペテロにも当時の一般民衆と同じく政治的なメシヤ理解が根強くあったところにサタンがはたらきかけ、ペテロを通してイエス・キリストが十字架に向かわないようにはたらきかけたということを表しています。サタンはイエス・キリストの贖いの十字架刑を阻止したかったからです。阻止すれば人類に罪の赦しの道が絶たれるからでした。
イエス様はそんな弟子たちと人々に対して、イエス様に従う者とはこういう者なのですと言われました。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(34節)それは、イエス様に従う者もまたイエス様と共に受難の道をたどることがあるが、それでも従ってきますか?という問いかけでした。十字架はローマの極刑でした。刑を宣告された者は、自分の十字架を背負い、辱めのうちに引き回され、公衆の面前ではりつけにされました。伝承によればペテロはローマで十字架刑に処せられ殉教しました。イエス様は、わたしに従って来たければ殉教さえも覚悟した上でわたしに従って来なさいと言われたのです。この約30年後にはクリスチャン迫害が激化しました。それ故に、イエス・キリストを救い主と信じことを撤回する者も起こったでしょう。そんな未来のことも踏まえてイエス様は言われました。
「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」(35~36節)
イエス様の十字架は私の罪のための犠牲だったと信じる者には永遠のいのち(神様と共に生きるいのち)が与えられます。そのいのちを失えば、たとえ全世界を手に入れても何の益もないのです。
「だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」(38節)
イエス様に従っていく者は、どんなことがあろうと、イエス様は私の救い主ですと告白して生きていく者でありたいと思います。
2022年2月6日(日)
「共におられる神と栄光に向かって」
テキスト:マルコの福音書9:2~8(新約聖書84頁)
イエス様はご自身の受難・死・復活を述べられ(8:31)、イエス様に従う者もまたイエス様と共に受難の道をたどることがあるが、それでも従ってきますか?と問いかけたが、それと共に再臨の希望も述べられた(8:38)。
2~3節「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。」
なぜイエス様はこのタイミングでご自身の栄光の姿を見せられたのだろうか・・。それは六日間にわたって語られたであろう、受難・死があまりにも強烈に脳裏に焼き付いた弟子たちに対して、受難・死の先に希望があるということを示す必要があったからではないか・・・。そしてイエス様は神であるということを。
イエス様はペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。そこにエリヤとモーセが現れた。エリヤもモーセもかつてホレブ、シナイ山で神様の顕現を体験した。雲(7節)も神様の臨在を現わしている。
弟子たちはエリヤとモーセがイエス様と語り合っている会話で、突然現れたのがエリヤとモーセであると分かったのであろうが、ペテロは混乱状態の中で三つの幕屋を造ることを提案する(5節)。かつて旧約の時代、幕屋は神様の臨在の象徴であったが、ここにおいては象徴ではなく、神そのものである御方、イエス・キリストが傍におられたのである。
旧約聖書を代表するエリヤとモーセも受難を通っての栄光の姿があることを弟子たちは見せられた。そして新約におけるイエス様においても受難の先に栄光があることをはっきりと見せて下さったのである。
私たちの生涯もそれぞれの受難の生涯と言えるであろう。
受難の生涯を生きていくには、いつも神様が共にいて下さること、そして、受難の先に測り知れない希望(栄光のからだによみがえらせられる)があることを信じていく必要があるのである。
2022年2月13日(日)
「神様に道を照らされながら」
テキスト:マルコの福音書9:9~13(新約聖書84頁)
9節:さて、山を下りながら、イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。
イエス様がどのようなメシヤなのか、その理解は弟子たちでさえ不十分なままであった故、それを他の人々が聞けば混乱が起きることは間違いなかった。
10節:彼らはこのことばを胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどういう意味か、互いに論じ合った。
「人の子が死人の中からよみがえる」と言われても簡単に、そうですかと理解できるようなことではなかった。
11節:また弟子たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのですか。」
律法学者たちはイエス様がメシヤであることを否定する理由として、マラキ書4:5「主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」というみことばを引用し、イエスが来るべきメシヤならば、その前にエリヤが送られてくるはずであるが、エリヤはまだ送られてきていないので、イエスは来るべきメシヤではないと言っていた。
12~13節:イエスは彼らに言われた。「エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです。それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。わたしはあなたがたに言います。エリヤはもう来ています。そして人々は、彼について書かれているとおり、彼に好き勝手なことをしました。」
「エリヤはもう来ています」とはバプテスマのヨハネのことを指している。バプテスマのヨハネこそが預言されたメシヤが現れる前の先駆者であったが、権力者はそれに気づかずに殺してしまった。「人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか」イエス様はイザヤ書53章に記されている苦難のメシヤについて示す。そこには栄光に輝くはずのメシヤが人間の罪のために苦難を受ける姿が記されている。イエス様は、すべてが旧約の預言通りに事が起こっているのだと述べている。
本日の箇所には、神様が解き明かして下さらなければ、神様の預言通りに事が起こっているということが分からない人間の姿がある。弟子たちにおいては、イエス様が十字架にかけられて死に、三日目によみがえり、天に挙げられ、聖霊が与えられるまでは、イエス様の言われたことが現実にはよく分からなかったのである。見ずに信じる者は幸いであるが、現実的には神様は今も、私たちが目で見て分かるようにして下さっているのではないだろうか?私たちは、おぼろげにでも、今、神様が起こしておられる出来事の意味が分かるように、聖書から神様のお考えを教えて頂き、神様が示しておられる道に、全く何も見えない中を進むのではなく、おぼろげながらも見えながら進んでいく者でありたい。
2022年2月20日(日)
「からし種ほどの信仰さえあれば」
テキスト:マルコの福音書9:14~29(新約聖書84頁)
14節「さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。」
ペテロとヤコブとヨハネ以外のイエス様の弟子たちは、汚れた霊にとりつかれたある人の息子から汚れた霊を追い出すことができなかった。律法学者たちはそのことでイエス様の弟子たちを揶揄していたのであろう。
19節「イエスは彼らに言われた。『ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。』」
このことばは律法学者たちと大勢の群衆に対して語られたことばであろう。イエス様の弟子たちにおいては、この後に起こるイエス様の十字架・復活・聖霊の内住によって神様への深い信仰に立つことをイエス様は分かっておられた。
しかし、イエス様の十字架が迫ってきていたこの時、イエス様は群衆と共にいることができる時間があとわずかであることを嘆かれた。そして、「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と語られ、神様への純粋な信仰を歪めさせてしまう律法学者たちとそれにのせられてしまう群衆たちを憂い、彼らに直接にかかわることができる時間もあとわずかであることを嘆かれたのであろう。
イエス様は汚れた霊を叱って汚れた霊を追い出された(25,26節)。
28~29節「イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。『私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。』すると、イエスは言われた。『この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。』」
並行記事のマタイの福音書17章20節には、「イエスは言われた。『あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。』」とある。
「からし種」は、ユダヤで最小の単位のたとえとして使われた言葉でもあるが、この時、神様へのほんのわずかばかりの信仰を持てたのは、汚れた霊にとりつかれた息子の父親だけであった。
かつては汚れた霊を追い出すことができた弟子たち(マルコ6:7~13)がこの時はできなかったのは、神様を頼って、神様を信じてということが全くなかったからであろう。
みことばによって、祈りによって、「からし種」ほどの信仰だけでも持ち合わせて歩み続ける者でありたい。
2022年2月27日(日)
「主に従う道は簡単ではないが」
テキスト:マルコの福音書9:30~37(新約聖書85頁)
31節「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」イエス様は弟子たちに、この後イエス様に起こる受難と復活の予告をされた。これは二度目の予告だった。しかし、この時もまた弟子たちには予告の理解ができなかった。イエス様が何を言っているのか、全く見当もつかないことだったからであろう。故に、弟子たちの関心事は、弟子たちの中で「だれが一番偉いか」ということだった。ヘルモン山に三人の弟子たちだけが連れて行かれたということも残された他の弟子たちには面白くなかったのではないか・・。
そんな弟子たちにイエス様は言われた。35節「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
「皆に仕える者」の究極の姿はイエス様の十字架にあった。何一つ罪のないイエス様が人間の罪の身代わりとなり十字架で命を捨てて下さったその姿である。そのようなことがこの時点で分かる由もない弟子たちに対して、「皆に仕える者」の心の態度とはこのようなことだと示された。
36~37節「それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。『だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。』」
当時のユダヤでは、幼子は社会的には無価値な存在と見られていた。そのような幼子に対して自分は仕える者であるとすることは、当時においては考えられないことであった。自分は幼子のような者に仕える者であるとする心の態度を持つには、大きな心の変革とそれ相応の覚悟(周囲の目も気にせずに生きる)が必要だったであろう。
本日の聖書箇所が示すことの大きな1つは、マルコ8:34にあったように(「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」)、イエス様に従っていく者は、イエス様と同じように受難の道をたどることがあるが、それでも従っていくという覚悟が必要とされるのである。しかし、従っていく者の生涯は、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:30)とイエス様が言われるように、私たちの受難をイエス様が共に負って下さる生涯なのである。故に私たちは恐れずにイエス様に信仰の目を向け続けて歩んでいく者でありたい。
2022年3月6日(日)
「自分を誇ろうとする者ではなく」
テキスト:マルコの福音書9:38~41(新約聖書86頁)
38節:ヨハネがイエスに言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」
イエス様の弟子たちは悪霊を追い出す権威を与えられていた(マルコ3:14、15。マルコ6:7)。しかし、弟子ではない者の中にも悪霊を追い出すことができた者もいたようである。それは「あなたの名によって」、イエス・キリストの名によって悪霊に出ていくよう命じたからである。このイエス様の直弟子ではなかった人は、イエス様の直弟子ではなかったが、悪霊につかれて苦しんでいる人を助けたいと、神様の助けを乞いながら神様に祈ったのではないだろうか・・。ヨハネはこの直弟子ではない人の悪霊追放の行為をやめさせようとした。その理由は「その人が私たちについて来なかったから」であった。イエス様の弟子集団の仲間であるという名のもとに悪霊追放の行為を行うならばその行為を認めてあげようというようなことだったのではないか・・。
この時のヨハネはどのような思いだったのだろうか・・。自分は奇跡を行う先生の愛弟子集団の一員であり、更に、その中でも、イエス様の栄光の姿の変貌を見せられた三人の弟子の中の一人であるということから、自分は偉い者なのだという間違った誇り高ぶりがあったのではないか・・。あるいは、悪霊追放ができなかった他の弟子(マルコ9:18)への思いやりがあったのか・・。あるいは、悪霊追放ができなかった弟子に向けて、直弟子でもないのに悪霊追放ができる者がいるのにおまえはなんなんだと・・・。自分は悪霊追放ができないような者ではないと、なお自分の地位をあげようとするような醜い思いがあったのだろうか・・(これは無いと思いたいが)。
39~40節:しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。
イエス様はヨハネの心の中をご存じであったが、そのことには触れずに、「わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人」はいないでしょう・・?、「わたしたちに反対しない人は」反対者ではないのだから、わたしたちの味方だという見方ができるでしょうという言い方をされているように思える。
イエス様のお気持ちはこのようなものだったのではないか・・。神様の力に頼って、苦しんでいる人を助けてあげることはすばらしいことではないですか・・。それを止めさせる必要はないでしょう・・と。
いずれにしても、弟子たちの中で「だれが一番偉いか」(マルコ9:34)ということが第一の関心事だった弟子たちは、「皆に仕える者」(マルコ9:35)の究極の姿、何一つ罪のないイエス様が人間の罪の身代わりとなり十字架で命を犠牲にされる姿とはかけ離れていたのである。
41節:まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。
人の目にはとまらないような小さく見える善意も神様はちゃんと見ていて下さる。イエス様に従っていく道とは、人に見せるための歩みではなく、自分を偉く見せるための歩みでもなく、私たち罪人のために十字架に向かっていかれたイエス様に倣っていく歩みなのである。
2022年3月13日(日)
「天国への道をふさがぬように」
テキスト:マルコの福音書9:42~50(新約聖書86頁)
(42節:また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。)
「小さい者たち」とは、社会的地位の低い人や、能力がないと見られる者や、貧しい者と見られた者のことを指している。この前の出来事から考えると、イエス様の直弟子ではなかったがイエス様の名によって悪霊追放をしていた人も含まれているのかもしれない・・。「つまずかせる」とは、イエス様を救い主として信じるということを妨げるということであろう。それは天国への道をふさぐということにつながる。そのようなことをする者は、「大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよい」とさえ言われる。
(43節:もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。)
自分自身の中にイエス様を信じる(イエス様の贖いの十字架・復活は私の罪のためであると信じる)ことを妨げるものがあるなら、どれほどの犠牲を払ってでも、そのつまずきの原因を取り除くことの重要性を語っている(手や足を切り捨て、目をえぐり出しても・・)。
「ゲヘナ」とは、エルサレムの南にある谷の名前であり、かつてユダヤ人たちは、異教の神に、息子や娘を火で焼いて人身御供を捧げた(エレミヤ7:31、19:56、32:35)。その後、ヨシヤ王の時代に宗教改革が行われこの祭壇は壊される(Ⅱ列王23:10)が、その後は、このように人身を焼いた場所の名であったので、やがて神様の審判を受ける場所、天国とは違う場所を意味するようになった。
(48節:ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。)
「ゲヘナ」は永遠の滅びの場所なのである。故に、天国への道を妨げる、つまずかせるものが自分自身の中にあるのならば、その原因を取り除かなければならない。
(49節:人はみな、火によって塩気をつけられます。)
「火」は、「ゲヘナ」においては破滅を意味し、信仰生活においては試練を象徴し、神様からの試練は霊の腐敗・堕落を防ぐという意図がある。
(50節:塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。)
塩の効力には二つの特徴がある。第一は、塩は物に味をつける。第二には、塩は防腐剤の役割をする。
イエス様の弟子たちには、イエス様による新しい命を人々に与え、イエス様への信仰生活を腐敗から守るという役割を期待されていた。
しかし、弟子たちの心は弟子仲間の内で、「だれが一番偉いか」(マルコ9:34)ということで満ちていた。それはイエス様の弟子としての塩気を失っている状態であり、そのままではイエス様を信じようとする者につまずきさえ与えてしまうのである。「自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごす」には、何一つ罪のないイエス様が人々を愛し、人間の罪の身代わりとなり十字架で命を犠牲にして下さったそのイエス様の歩みに倣っていくのである。聖霊の神様の助けを仰ぎながら・・・。
2022年3月20日(日)
「自分を正当化しようとする人間」
テキスト:マルコの福音書10:1~12(新約聖書87頁)
ユダヤ人の離婚に関する律法は申命記24:1~2に記されている。「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり」
しかし、この律法によって、神様が離婚を正しいと是認されたのではない。イエス様はこの律法が与えられた背景を示された。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。」(5節)しかし、はじめの時からそうだったのではなく(マタイ19:8)、神様の御旨はこうであった。「創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」
しかしイエス様の時代のパリサイ人たち、そして、パリサイ人たちの教えによって一般の人々も申命記24:1、2のみことばを都合のよいように解釈し、離婚の自由を広く認め、女性のちょっとした落ち度であっても男性は離婚できるとしていた。
本日の聖書箇所から2つの点を覚えたい。
①「神様は人間の弱さに譲歩して下さる御方」
申命記24:1、2の律法は、人間のかたくなさと弱さのためにやむを得ず定められたものであった。神様という御方はご自分のお考えを頑として変えないという御方ではなく、人間のかたくなさ、弱さに譲歩して下さる御方なのである。
②「人間は自分を正当化しようとしみことばを都合のよいように解釈する」
確かに神様は人間のかたくなさ、弱さに譲歩して下さる御方である。しかし、人間はその神様の寛大さに乗じて、自分の罪の行為を正当化するためにみことばを都合のよいように解釈しようとする者であることを自戒する必要がある。
2022年3月27日(日)
「子どものように受け入れる」
テキスト:マルコの福音書10:13~16(新約聖書87頁)
13節:さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。
当時のユダヤでは、幼子は社会的には無価値な存在と見られていた。イエス様はこの出来事以前にも同じようなケースで弟子たちを教えた。「皆に仕える者」とは、無価値な存在と見られていた子どもたちを師であるイエス様と同じと見る程の心の姿勢を持つ者であると・・。(マルコ9:34~37)しかし、弟子たちには天国への道を妨げてはならない(マルコ9:42)という教えも、また、理解できていなかったのである。よって弟子たちは、イエス様に手を置いて祈ってもらおうと子どもたちを連れて来た人々を叱ったのである。
14節:イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
子どもたちは本来、ありのままに生きることを自然とする者である。神の国はありのままに生きられるところなのである。
15節:まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。
本来子どもは、欲しいものは単純に欲しいと、その言動を取る。ありのままに生きられる国に「ぼくも、わたしも行きたい」と単純に求める者に神の国は与えられるのである。私たち人間を愛して止まない神様は、イエス・キリストによる贖いの十字架によって、信じる者に天に国籍を持つ者として下さったのである。それを単純に受け入れる者は神の国(天国)に入ることができるのである。